湯川 直春(ゆかわ なおはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。紀伊国亀山城[注釈 1]主。名は湯河 直春とも書く[1][注釈 2]。
湯河氏(湯川氏)の当主・直光の子として誕生[1]。湯河氏は紀伊国日高郡小松原(御坊市湯川町小松原[6])を本拠とし、日高平野一帯を支配していた[7]。
永禄5年(1562年)5月20日、紀伊国守護・畠山高政の麾下で、父・直光は三好長慶と戦い、敗死(教興寺の戦い)[8]。このため、直春が跡を継いだ[1]。同年7月、家督継承にあたって雑賀衆と起請文を交わしており[9]、同盟関係の継続を確認している[10]。
元亀元年(1570年)、摂津国の野田・福島で織田信長と三好三人衆が戦った際、直春は玉置氏とともに織田方に加勢した(野田・福島の戦い)[11]。天正元年(1573年)12月に、信長と対立した将軍・足利義昭が紀伊国由良興国寺に下向してきた際、義昭は直春に協力を要請している[12][13]。天正4年(1576年)の木津川口の戦いでは本願寺方が信長に勝利しているが、直春は本願寺関係者に勝利を祝う書状を送っており、本願寺に味方していた[14][15]。
天正12(1584年)3月、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが始まると、直春は雑賀衆や根来衆らとともに徳川方として兵を挙げた[16]。
天正13年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐を開始[17]。直春は抗戦を決定したが、有田郡の白樫氏や神保氏、日高郡の玉置氏は秀吉に帰順した[18]。直春は娘婿でもある玉置直和の居城・手取城(日高川町和佐)に兵を差し向けたが、仙石秀久や中村一氏ら羽柴軍が迫ってきたため、亀山城に火をかけ、本拠の小松原を撤退[19]。熊野山中に入り[20]、近露(田辺市中辺路町近露[20])の横谷氏の館へと入った[21]。
3月28日、羽柴方の杉若無心や仙石秀久らは湯河氏が放棄した湯河教春の城・泊城(田辺市芳養町井原)へと入る[22]。4月1日、仙石秀久、尾藤知宣、藤堂高虎が1,500の兵で近露に向ったところ、潮見峠で直春の迎撃にあって引き下がったという(『湯川記』)[23]。この後、7月まで羽柴方と直春らの争いは続き、最終的に両者は和睦[24]。和睦の条件として本知安堵があったとされる[25]。
翌天正14年(1586年)、直春は死去した[26]。直春の死については病死説[注釈 3]の他、同年2月に大和郡山で羽柴秀長に謁見したのちそのまま留めおかれ、7月に毒殺されたとする説(『湯川記』)などがある[28]。
子・丹波守(勝春[29]、光春[30])は秀長に仕えて3,000石を領した[31]。秀長の没後は浅野氏に仕え[32]、やがて浅野長晟とともに安芸国へと移った[33][34]。