浦川 タレ(うらかわ タレ、1899年〈明治32年〉3月[2][3][4] - 1991年〈平成3年〉10月23日[5])は、日本のアイヌ文化伝承者。北海道浦河を代表する伝承者の1人とされる[6]。アイヌの織物であるアットゥシの織手としては、全道でも数少ない存在であり[7]、姉茶民芸品研究会(浦河ウタリ文化保存会の前身[8])を組織して、アットゥシなどのアイヌ文化の伝承と保存に貢献した。
経歴
北海道の荻伏川上流の集落(現・浦河町野深[4][6])で誕生して[3]、姉茶(現・浦河町)で育った[9]。幼少時に母と死別した後、伯父夫妻に引き取られ、アイヌの知識を厳しく教え込まれて育った[10]。勉強家で、アイヌ語にも精通していた[9]。
終戦後、自身を中心とする数人のグループで、アットゥシ、花ござ、木彫りなどの製作を始めた[11]。これが日高支庁保護係長の目にとまったことで、札幌市で展示即売会が開催され、「素朴な民族の心」として話題を呼んだ[11]。
このことでタレは意欲に燃え、部落にアイヌ技術の習得を呼びかけ、1966年(昭和41年)に姉茶民芸品研究会を組織して、自ら会長をつとめ[11]、アットゥシ、花ござ、木彫りなどの研究と伝習を行った[7]。ウポポ(座り唄)、ツムセ(踊り)などの伝承や指導にも努めた[7]。
1982年(昭和57年)には、アイヌ文化の伝承と保存の功績を評価されて、北海道文化財保護功労者に選ばれた[6][7]。翌1983年(昭和58年)にはアットゥシの技術保持者として指定された[7]。
同1983年に引退[12][13]。1991年(平成3年)10月、浦河町内の病院で、92歳で死去した[5][14]。没後の2000年(平成12年)、浦河ウタリ文化保存会設立40周年記念式典において、アイヌ伝統文化保存への協力の功績により、同保存会の他の6人と共に表彰を受けた[15]。
影響を受けた人物として、遠山サキは、1970年頃から民芸品製作を指導を受けている[16]。計良智子も、浦川タレや織田ステノからの教えで、大きな影響を受けている[17]。
脚注