池田 重利(いけだ しげとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての僧・大名。播磨新宮藩初代藩主。元は本願寺の坊官であり、下間 頼広(しもつま らいこう)と名乗った。下間系池田家初代。
本願寺の坊官・下間頼龍の長男。はじめ父と共に東本願寺の教如に仕えたが、教如とは相性が悪く父が死んだ慶長14年(1609年)に叔父(母の異父弟)の播磨姫路藩主池田輝政の元へ出奔した。頼広は学識や武芸に通じていた事から、輝政から仕官を勧められて3000石をもって輝政の嫡子利隆の補佐を命じられた。その際、利隆の諱から一字取り下間重利と改名している(偏諱)[2][3]。慶長18年(1613年)に輝政が亡くなり利隆が家督を継ぐと池田姓を与えられて池田重利と改姓[2][3][4]。翌慶長19年(1614年)には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している[5]。
大坂の陣では利隆から尼崎城守備を命じられ、代官である甥の建部政長が幼少のため彼を助けて守った。この戦功で戦後に政長と共に川辺郡・西成郡で1万石を与えられて摂津尼崎藩が成立、大名となった[3][4][6]。元和2年(1616年)に利隆が亡くなり嫡男の光政が家督を継いだが、幼少のため翌元和3年(1617年)に姫路藩から因幡鳥取藩へ転封、重利も宗主である池田氏の転封により播磨揖東郡鵤荘に転封。揖東郡の村々を政長と分割、26ヶ村を領有した(政長は林田藩を立藩)[3][4][7]。
陣屋は初め鵤の太子寺(現在の斑鳩寺)の西に建てたが、寛永2年(1625年)に家老村上左兵衛が殺人を起こして龍野藩へ逃亡する事件が発生、左兵衛を切腹させたが龍野藩や姫路藩本多氏と対立したことが原因で、寛永3年(1626年)に揖東郡の新宮に陣屋を設置し、新宮藩を創設した[4][7]。
それから5年後の寛永8年(1631年)に46歳で死去、家督は長男の重政が継いだ[3][4][7]。
重利の姉妹は池田輝政の姪にあたるため、日置忠俊(池田家臣)室、建部光重室、徳永昌重正室、大久保外記(大久保長安の次男)室、丹羽幸元(池田家臣)室は全て輝政の養女として嫁いだ[13]。