森本 治吉(もりもと じきち、1900年1月10日 - 1977年1月12日)は、日本の歌人・国文学者。学位は、文学博士。二松学舎大学名誉教授。歌人の槇弥生子は子の妻。歌人の森本平は孫。
1900年(明治33年)、熊本県熊本市新町に生まれる。1920年(大正9年)、第五高等学校在学中に短歌雑誌「白路」を創刊、この年「アララギ」に入会。「白路」の名は当時第五高等学校の教授であった高木市之助の命名という。1923年(大正12年)、東京帝国大学文科へ進学し、佐佐木信綱、久松潜一、高木市之助に学ぶ。1946年(昭和21年)「白路」を復刊し社主となる。1929年(昭和4年)二松学舎専門学校教授となり、のち二松学舎大学教授となる。1950年『万葉美の展開』で駒澤大学より博士(文学)の学位を取得[1]。1973年二松学舎大学を定年退職し名誉教授となる。1974年、歌会始の召人を務める。
1952年(昭和27年)上代文学会創設委員として尽力、設立後常任理事として事務局を担当。1958年(昭和33年)より理事長。他に、日本風土学会理事、日本歌人クラブ理事など。万葉集の専門的研究及び万葉集の普及活動、歌作及び作歌指導活動に尽力した。編著書は多数に及ぶが、第一編著は1932年(昭和7年)『作者類別年代順万葉集』(澤瀉久孝共著)、1941年(昭和16年)には半架空自叙伝である『万葉に生くる者』が出ている。第一歌集は1951年(昭和26年)『晩鐘』。以後生前のものに『耳』『伊豆とみちのく』がある。代表的な万葉研究書に『万葉集の芸術性』『万葉精粋の鑑賞』『人麿の世界』『高橋蟲麻呂』などがある。『万葉集総索引』は、自分の仕事だったと、『国語国文学研究史大成 万葉集』に森本本人が記している。
1977年(昭和52年)1月12日、脳軟化症のため東京都杉並区の病院にて死去。77歳没。戒名は「積学院治徳寿光居士」。
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