柴田 紘一(しばた こういち、1940年11月10日[2] - )は、日本の政治家。岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(4期)、岡崎市議会議員(2期)、東海市長会長、全国市長会副会長などを歴任した。
愛知県額田郡岩津町大字大門(現・岡崎市大門3丁目)の農家に生まれた。名前は「八紘一宇」からとられた[4]。父母は農作業で忙しかったため、祖母に育てられる。近所の大圓寺[3]に設けられた託児所に通所した[4]。
学校教育法が施行された1947年(昭和22年)、岩津町立大樹寺小学校(現・岡崎市立大樹寺小学校)に入学。6年生のとき母親がパーキンソン病に罹り、田1町歩、畑5反歩を父親は一人で耕作しなくてはならなくなった。1953年(昭和28年)4月、岩津町立岩津中学校(現・岡崎市立岩津中学校)に進学するが、田畑は次第に荒れ始めた。「お前早く嫁さんをもらって楽させてくれ」という父親の願いに負けて高校進学は諦め、15歳から家業に携わった[4]。
1959年(昭和34年)4月に結婚。妻も柴田も互いに18歳であった。妻ヒサはよく働き、やがて一家は900坪のビニールハウスによるナス栽培で成功を収める。しかし喜びも束の間、父親が脳溢血で倒れ寝たきりとなった。パーキンソン病で倒れた母を8年、寝たきりとなった父を7年自宅で面倒をみながらの農作業は決して楽なものではなかったという[5]。
1980年(昭和55年)6月の衆院選に際し、岡崎市長の内田喜久は長男の内田康宏を擁立し、市内のみならず安城市、幸田町、旧額田町にまで金をばらまいた[6][7]。岡崎市議会は議員44人中25人という空前絶後の逮捕者を出し[8]、主犯の内田喜久も逮捕され、8月17日の市長選挙で自民党県議の中根鎭夫が初当選した[9]。
内田は愛知県警本部の留置場から、「私が保釈されるまで議員を辞めるな」と逮捕された市議に指示。市議たちの地元でも総代会が減刑嘆願書を名古屋地検岡崎支部に提出したり、減刑嘆願の署名運動が行われたりした[10]。辞職した者はわずかに一名。8月19日、中野四郎衆議院議員の後援会メンバー2人が「リコール(市議会解散請求)しかない」と立ち上がる[11]。8月26日、「新しい岡崎をつくる本宿住民の会」と「清潔で民主的な岡崎をつくる市民会議」の2つの市民団体が市議会自民クラブに「即時解散の方針を決議せよ」と文書で申し入れた[12]。中野の後援会メンバーは、自分らが前に出ると運動は失敗すると踏み、「新しい岡崎をつくる本宿住民の会」代表の20代男性にリコール団体の代表になるよう口説いた。8月31日、岡崎市民会館に約200人が集まり、「リコールを進める市民の会」が発足した[11][注 1]。
9月3日の臨時会に自主解散決議案が提出されるが、数票の差で否決される。合同組織「岡崎市議会リコール連絡会議」は翌日から署名運動を開始[18]。署名は瞬く間に必要数を突破し、追い込まれた市議会は9月17日に自主解散した[19][20]。
柴田は、中部土地区画整理事業(1965年~77年)[21]が提示された際に市当局と渡り合った実力を見込まれ、周囲から解散に伴う市議選への出馬を勧められる[4]。10月26日に行われた選挙に無所属で立候補し、定数44人に対し14位で初当選した[22][23]。加藤円住(僧の他阿真円)らと共に8人会派「新政クラブ」を結成した[24][5]。
1983年(昭和58年)に再選。
1985年(昭和60年)4月、前述の衆院選で逮捕された中根薫県議が上告棄却を受けて辞職[25]。市議の柴田、市議の青山秋男、元衆議院議員秘書の内田康宏らは同年秋頃から空いた議席を狙い運動を開始する。1986年(昭和61年)、柴田の事務所が百々西町に建てられた[26][27]。
現職の柴田尚道に加え、柴田紘一、青山、内田の3新人が公認争いを演じ、結局調整できなかった自民党岡崎市支部は県連に一任。県連は定数いっぱいの4人を公認することで問題に決着をつけた[28][29]。
1987年(昭和62年)3月、共産党現職の田中定雄が病にたおれる。党西三地区委員会は田中の後継として急遽、市議の八田広子の擁立を決定[30][31]。この頃、社会党も女性候補擁立に急いでいたが、不首尾に終わった。
同年4月3日、県議選が告示される。前年に初当選した衆議院議員の杉浦正健は表向き4候補を推薦したものの、自派の柴田尚道と柴田紘一を主に応援した。尚道は自民党市議27人のうち14人を味方につけるが[32]、折悪しく選挙期間中に病気になる[33]。4月12日投開票。1位小見山徹之助(民社党)、2位八田広子(共産党)、3位内田康宏、4位柴田紘一。次点の柴田尚道を594票差でかわし、初当選を果たした。青山は最下位で落選した[34][32]。
同年4月15日までに柴田の陣営の幹部ら3人が公選法違反で逮捕される[26]。容疑では同年2月上旬、選対事務局長ら2人が選対企画担当に投票と票のとりまとめを頼み、現金数十万円を渡したとされた。連座制を規定する公職選挙法251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、事件当時は法改正される前であり「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する最高裁判所昭和35年2月23日判決があったため[注 2]、柴田は起訴を免れた。
1999年(平成11年)の県議選で4選。同年5月24日、副議長に就任[36]。
2000年(平成12年)6月の第42回衆議院議員総選挙において、岡崎市長の中根鎭夫は連日、杉浦正健の個人演説会に出席し応援演説を行った。同市では3か月後の9月10日に市長選を控えており、このため関係者の間では「中根の6選出馬間違いなし」と見られていた。6月25日、杉浦は順当に当選を果たし[37]、6月28日、中根は正式に立候補の意向を明らかにした[38]。
「5期でやめると言ったはずではないか」と反発を感じた柴田と青山秋男県議は中根に直接面談した。「どなたか市長さんの推薦される方を出して下さい。私達は応援しますから」と説得にかかると、中根は「各種団体から多くの出馬要請を受けている以上、今さらやめるわけにはいかない」とはねつけた。7月19日には連合愛知三河中地域協議会と政策協定を結び推薦を受けたことを発表し、勢いに拍車をかける[39][40]。
戦中から終戦直後まで岡崎市長を務めた菅野経三郎。そこから続く竹内京治。太田光二。内田喜久。中根鎭夫。彼ら5人の市長はいずれも保守系県議会議員の出身者であった。そのような政治土壌の中で、柴田も青山も自らの出馬を当然意識せずにはいられなかった。もう一人の自民党県議の内田康宏は中根と長く敵対関係にあったものの[41][42][43]、1996年(平成8年)から中根陣営の選対本部長に引き入れられており、転身の芽を摘まれていた[44]。
青山秋男は1975年(昭和50年)の岡崎市議会議員選挙で初当選[22]。政治キャリアの点で柴田より一日の長があったが、この場合何といっても物を言ったのは県議会議員の期数であった。13年前の選挙で柴田が現職を僅差で打ち破ったことが、二人の明暗を分けた。さらに、中根の多選反対の急先鋒に立つ岡崎商工会議所会頭の大川博美と大川の妻がともに柴田の岩津中学時代の恩師であったことが、柴田の出馬を確たるものにした[4][26]。岡崎商工会議所の会頭、副会頭、文化人らによって作られた候補者擁立のための団体「新世紀の岡崎市政をつくる会」[45]は大川に候補者選びを一任。7月26日に開かれた2回目の会合の冒頭で、大川は、出馬への意欲を見せていた柴田と自民党市議の河澄亨の二人のうちから柴田を選び推薦を決定した[46]。そして杉浦正健と青山も柴田の全面支援を表明した[47][46]。8月9日、元高校教諭の川島健が市民団体「市民に開かれたあたたかい岡崎市政を、みんなでつくる会(略称:あったか岡崎市政の会)」の推薦を受けて立候補する意向を表明[48][注 3]。8月19日、自民党岡崎市支部は中根、柴田、河澄のいずれも推薦しないことを決めた[54]。
保守3分裂という異例の事態になった市長選は9月10日に執行され、6歳未満の子供の医療費無料化、出産費用の20万円補助、市民の声を聴く「教えてくれません課」の新設、市長給与の3割カットなどを選挙公約に掲げた柴田が初当選した[44][55][56]。この年から市長選は市議選と同日選挙となり、投票率は前回の32.11%から67.22%にはね上がった[57][9]。 ※当日有権者数:253,322人 最終投票率:67.22%(前回比:35.11pts)
2006年(平成18年)、東海市長会長、全国市長会副会長に就任。
2008年(平成20年)8月21日、「あったか岡崎市政の会」が擁立した元農水省東海農政局職員が、共産党の推薦を得て市長選に立候補する意向を表明[58][59][60]。10月5日に行われた市長選で同候補を破り3選[61]。
2012年(平成24年)6月1日、任期満了に伴う市長選への不出馬を表明[62]。同年10月4日、任期満了により退任[63]。10月21日、市長選執行。後継として擁立した日本一愛知の会の園山康男県議は落選した[64]。
2014年(平成26年)6月、岡崎市名誉市民に推挙される[65]。2015年(平成27年)4月29日、旭日中綬章を受章。
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