柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月2日)は日本の教育者、実業家、財界人。位階勲等は勲二等正四位。桐蔭学園の創立者。
筑波大学(旧東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。
理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。
未来ある若者を思い奨学金制度、財団法人柴田育英会(現公益財団法人柴田育英会)を創立。
教育者として
茗渓会会長、桐蔭学園初代理事長、茗渓学園初代理事長、科学技術学園理事長、柴田育英会初代会長、筑波学都資金財団各理事長、紫峰会初代会長、都教育委員をつとめる。
財界人として
三菱化成工業株式会社(現三菱ケミカル株式会社)社長、永楽トラベルサービス株式会社(現菱和ダイヤモンド航空サービス株式会社)社長、ユニオン映画株式会社取締役、日本経済団体連合会常任理事、宝満会会長をつとめる。
桐蔭学園、茗渓学園、科学技術学園と全く異なる校風をもつ学校の理事長を兼任していた背景には、教育界に蔓延した形式主義や官僚気質に非を唱え、野の碩学を最も尊んだ柴田の~教育者も生徒も各々の個性の尊重ありき~というプリンシプルがみてとれる。
生前の側近であった鵜川昇(桐蔭学園2代目理事長)は、「形式的な行事が嫌いな人で喜寿の祝いの話も、胸像をつくる話も、いくら外からもちこまれてもOKしなかった」と、『柴田周吉自傳』のはしがきにて記述している。
柴田は教育者のありかたについて「教育は一に人、二に人、三に人である」と述べている。生前、教職員にはもっと高い給料を、と訴えていた。当時、教職員には手厚い待遇も特権もなくでもしか先生という用語が表すように優秀な人材が集まりにくい環境にあった。給与も教職は一般行政職より安く、スタートは高くても何年かたつと行政職の方が急にあがってくる。柴田曰く、優秀な人材は率先してやってくるような状態をつくらねばならないが、その為には手厚い待遇が肝心だ、と唱える。反面、タイムカードは教育には無関係だよ。超勤手当が欲しくて長時間働くなどという者には教育者の資格はないよ。残業どころか、ときには徹夜をしてだって子供を説き伏せ指導し、身を張って守っていかなくてはならないんだよ。何時がきたから今日はこれでおしまいなどは、教育者の考える事ではないぞ、と述べている。更に、国家百年の計という観点から教育を観て、教育の基盤をおろそかにした国で長く栄えたためしなどない。だからこそ私は、一般の水準より高い収入を呼びかけているのだ。医師は、場合によっては、ずいぶん辛い長時間の肉体的頭脳的重労働を強いられるが、彼らは社会的にも尊敬され、収入もゆたかではないか。子供を育てる仕事もそのように考えてゆかねばならない。と断言している。
かつて柴田自身が学生時代に覚えた「そこ(師範学校)で習った先生たちのつまらなさは、今でも不愉快でたまらない...ほとんどは高等師範出身だが、国学院卒とか、検定あがりとか、ずいぶん苦労をして師範の教職の資格をとった人もいた。が、その苦労が人間の味として稔らず、逆に杓子定規のセコセコした性格になってしまっていた。学力のある人もいたが、無味乾燥で生徒を感激させるものがないのだ。これは教育の基本として大事なことだと思う。」といった不満が、後の柴田の原動力となったのである。反対に代用教員ではあったが、石川啄木や安倍能成を例に挙げて「放埒無頼だが...類のない魅力で、子供たちに人気があったという(石川啄木)...学資が足りなくなって(一高入学前)代用教員稼ぎをされていたとき、ひどく人気があったとの話もきいた(安倍能成)」と、真の教育者に何が大切なのかを説いている。
死後、筑波大学新聞に投稿された柴田を偲ぶ記事に「業財界の大御所として、また、教育界の大御所として、一世を風靡して来られた人間柴田には、それだけにまた、人一倍の厳しさと高潔を自らに求めねばならず」とある。自らの功績を銅像等の装飾によって飾るをよしとせず、何より平素の在り方全てが生前の自宅の佇まい(エピソード参照)に無言で語られていたといえる。財界人として培い養った力を教育界の為、国家百年の計の為に全力をもってなげうったその在り方は、ただひたすらに未来ある若者を想い、国の礎を陰から育て支えんとする硬骨の士であり、強烈な人間愛そのものであった。
村上素道(曹洞宗の禅僧・昭和17年鳳儀山聖護寺を再建)を敬愛していた柴田は産經新聞紙上に自身が連載していた随筆や『柴田周吉自傳』で以下の談話に触れている。柴田が三菱化成社長時、久しぶりに上京した村上素道老師を家中で迎えた。食事が済み、一同コタツのまわりをとりかこんだ折、柴田の次男(当時高校生)が同席していたこともあり、老師の話は自然と親子の話へ移った。「わたしのうちは子供が多くて、暮らしは大変だった。ときには、母親が盗みまでして子供に食べさせたものだった。それも行きづまって、最後には、とうとう私は寺にあずけられた。ときどき里帰りすることがあると、寺に帰るとき、母親は途中の小店のある所まで、淋しそうに見送ってくれた...とにかく、盗みまでして育ててくれた、母の恩は忘れられない。」柴田曰く、「世の諺に”貧の盗み恋の歌”というのがあるが、社会保障のない明治の初年のころは、貧困家庭は、子供を育てるためには、盗みでも何でもする以外に道がなかったのであろう。老師の母上の当時の犠牲とお苦しみも察しられるが、母上の盗みの話をなんらこだわりなく、とらわれることもなく話される話し振り、これは老師のお人柄からくるものであろう。ここまでくると、盗みの話も一つも不純なことではなくなってしまう。」と記述している。併せて柴田が幼少期(曰く7、8歳頃)に過ごした村で起きた米泥棒のエピソード(エピソード参照)に触れ、当時の農村は福祉施設も何もなく、食いかねるほど貧しいギリギリの状況下での出来事と語り、末尾に「鍛えに鍛えて、抜け切った人でなくてはこんな話はできるものでなく、また、聞けるものではない。」と結んでいる。(熊本に庵を結んでいた村上素道は黒崎の柴田-黒崎工場時代-を毎年訪ねて、柴田と若手達に法話を聞かせていた。)
柴田(当時茗渓会副理事)と学友であった三輪知雄(初代筑波大学学長)が東京教育大学(後の筑波大学)学長に就任していた関係で、三輪より「もう、あの狭い小石川の校舎では教育出来ない」との相談を受ける。母校ということもあり、柴田曰く「学部が方々に蛸の足のように散らばっている環境はいただけない」と同意した。「たまたま河野一郎氏が筑波の土地を選んで筑波研究学園都市をつくるからそれに行かないか、との勧奨を文部省からうけた。じゃあいこうということになったが...」
「八年もの戦いだったね、三輪君は。彼は本当の教育家だよ。しかし、長い間ゴタゴタしてねえ。学長を救いだすとか、会合ができないからどうするとか、警察と役所と政府との連絡などの援護射撃が骨が折れたね。でもあれは僕の今までにやってきたことで、一番いいことの一つだと自負している。文部省があそこをモデル大学にしてさまざまの大学改革をおこなう橋頭堡なんだから、日本の大学のあり方が変わるよ。七十万坪もある広大さで、これは本郷の東大キャンパスから水道橋まであるというほどで、イギリスでいえば、エセックスとかサセックスとかいうところと比肩するほどのものになる。敷地の広さだけじゃなく、学術会議も国際会議もできる。ああいうところで国家有為の人材が育つ。いまはまだ不便だが、交通機関がそのうちできるからスーッといけるようになる。交通の便がよくなりゃ、いい先生たちも集まるようになる。学校という所は先生できまるな」と対談上で述懐している。
江田昌佑(元筑波大学副学長・元鹿屋体育大学学長)は『柴田周吉先生 筑波大学創設の大恩人』と題し「私が筑波大学創設にわずかながらも関わることができ、その後の草創期も全力を投入することができたのは、先生のご薫陶を得たおかげであり、わたし自身ひそかに誇としているところです。先生が筑波にご来駕の折、時に私を呼んで下さり種々お話し下さいました。大学は自由でなくてはならないこと、筑波大学はあくまで総合大学として発展すること、法科関係を充実させることなど、今でも私には生きた言葉として脳裏にあります。」と、その想い出を平成13年の寄稿文に記している。
柴田曰く「筑波大学完成後、付属校を東京に残す為に筑波に中学と高校を国費で作ることはできないか、ということで同窓会の茗渓会で作ったのが茗渓学園である。新しいタイプの国際的な学校である。将来が楽しみである。」と述べている。
昭和57年10月2日午前8時50分 小脳出血のため、癌研究会付属病院にて84歳で死亡。葬儀(10月27日)は秋晴れの中、桐蔭学園、茗渓会、科学技術学園、三菱化成工業の合同葬というかたちで行われ、告別式も共に築地本願寺にて行われた。柴田の盟友及び当時の財界、政界の士が多数参列すると共に、柴田が最も愛した未来ある桐蔭学園、茗渓学園、科学技術学園の生徒卒業生達が律をもった美しい列をなすという、柴田らしい凛とした葬儀であった。現在は鎌倉霊園に眠る。
~思ってみれば、眼には見えないけれども、わたしたちの身のまわりには、こうした何十年かの因縁がいっぱいで、その縁にくくられているようにも思われる~(柴田周吉随筆より)
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