松本 克平(まつもと かっぺい、1905年〈明治38年〉4月25日 - 1995年〈平成7年〉10月3日)は、日本の俳優、新劇史家、演劇評論家。本名:赤沢 義巳(あかざわ よしみ)。長女は女優の赤沢亜沙子。
戦前は東京左翼劇場、新協劇団などに所属、戦後は俳優座に入って中堅俳優として多くの舞台に立ち、亡くなるまで現役として活動した。舞台以外にも映画、テレビドラマでも脇役として活躍。新劇史家として『日本新劇史』『日本社会主義演劇史』等の著作を上梓している。自伝に『八月に乾杯 松本克平新劇自伝』。
1905年(明治38年)4月25日、長野県南安曇郡明盛村に生まれる。旧制松本中学、早稲田第二高等学院を卒業[1]。旧制中学の同級生に臼井吉見、古田晁がいる。早稲田大学文学部英文科中退[2]。
1929年(昭和4年)、劇作家を志望して東京左翼劇場に研究生として入る[1][3][2]が、俳優に転向し『吼えろ支那』で初舞台を踏む[1][4]。松本克平という芸名は、山本安英の夫である藤田満雄が「松本出身のKPD(ドイツ共産党の略)」という意味で命名した[5]。1933年(昭和8年)、中央劇場に参加、当時は日本プロレタリア演劇同盟(通称:プロット)東京支部の組織部長も務めていた[6]。翌1934年(昭和9年)、村山知義、小沢栄太郎らと新協劇団の結成に参加し、『どん底』の男爵役で注目される[1]。1939年(昭和14年)、新協劇団賞を受賞[1]。
1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧により劇団を強制解散させられ、松本を含む数百人の劇団員が検挙される。翌1941年(昭和16年)12月に出所した[2]松本は、井上正夫主宰の井上演劇道場の文芸部員となった[1]。
1946年(昭和21年)、村山知義らの第二次新協劇団に参加。1948年(昭和23年)、俳優座に入団し、『桜の園』のガーエフ役、『ワーニャ伯父』のセレブリャーコフ役[7]、『夜の来訪者』の工場主役、『有福詩人』の仁斎役などに、地味だが巧みな演技を見せ、同座の中堅として活躍する[1]。晩年も1991年5月の村瀬幸子との二人芝居『八月に乾杯!』(遺作)などの舞台に立ち、劇団の長老格として最後まで現役として活動した。1994年(平成6年)、第22回日本新劇製作者協会賞を受賞[8]。
映画には1937年(昭和12年)の『風流演歌隊』で初出演し、戦後から『女性の勝利』、『破戒』などに脇役で出演。1956年(昭和31年)からは『警視庁物語シリーズ』で捜査一課長役を8年間演じた。そのほか『純愛物語』、『怪談』、『砂の器』など多くの作品に出演した。1960年代以降はテレビドラマでも活躍、時代劇では悪役も演じた。
俳優活動の傍ら、プロレタリア演劇を中心に日本新劇史の研究にも努め[2]、多数の著書を出版している。1967年(昭和42年)には著書『日本新劇史』で第18回読売文学賞を受賞している。また、演劇評論家としても知られる。
1995年(平成7年)10月3日午前2時3分、急性肺炎のため死去(享年90歳)[9]。
太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
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