松平 重利 (まつだいら しげとし)は、江戸時代前期の旗本。忠利系三木松平家2代。『寛政重修諸家譜』編纂時に提出された家譜によれば、諱は忠貞[1]。
経歴
三木松平家の松平忠利[注釈 1]の子として生まれる[1]。忠利は500石取りの旗本であったが、慶長14年(1609年)に職務上の問題で改易され、寛永9年(1632年)に許されて幕臣に復帰し、300俵を給されている[1]。『寛政重修諸家譜』に、重利の生年(および生年が算出可能な享年)の記載はない。
寛永11年(1634年)3月11日、徳川家光に御目見[1]。のちに大番に列する[1]。
父の死に伴い、慶安2年(1649年)12月14日に遺跡を継承。万治3年(1660年)2月23日、大番組頭となり[1]、同年12月26日に200俵を加えられる(合計500俵)[1]。
寛文4年(1664年)閏5月24日に職を辞し、小普請となる[1]。延宝8年(1680年)3月28日死去[1]。
系譜
『寛政重修諸家譜』には、男子3名が載る[2]。
補足
長男の忠義(与十郎)は番方を歴任し、加増を受けて最終的に500石を知行した[1]。
次男(次郎四郎、五平次)は大野家の婿養子となり、大野元脇を称した[3]。大野家は武田旧臣出身で、のちに徳川忠長に附属された家である[5]。元脇の義父の大野元継は、忠長に書院番として仕えたが、忠長改易とともに浪人、のちに幕臣に復帰し、大番入りして最終的に200石を知行した[5]。元継の正室は加賀藩家老・本多政重の娘である[6]。
三男の忠政は大番に列し、200俵取りの別家を立てた[4]。
脚注
注釈
- ^ 松平重忠の二男。三木松平家の嫡流は、慶長6年(1601年)12月に隠居の重忠、当主の忠清(忠利の兄)が相次いで没し、忠清に嗣子がなかったために絶家とされている[1]。忠利はこれより先に別家を立てていた[1]。
出典
参考文献
- 続群書類従完成会『新訂 寛政重修諸家譜 第一』1965年、23-24頁