有馬 頼端(ありま よりなお[1])は、筑後久留米藩第8代藩主・有馬頼貴の子。世嗣と定められたが、家督を継ぐことなく没した。
生涯
安永8年6月27日(1779年8月9日)[3][4]、有馬頼貴の三男として出生[1][3](夭折した男子が1人いるため、四男と記されることもある[4])。母は高木氏[1][5]。
兄の頼善が狂気によって廃嫡されたため[4]、寛政5年(1793年)3月25日、父頼貴の嫡子となる[1][6]。同年9月15日、将軍徳川家斉に拝謁する[1]。同年12月26日、従四位下上総介に叙任する[1]。
しかし、家督を継ぐことなく、文化元年(1804年)12月22日に没した[3][7]。享年26[4]。
頼端の死により、頼端の長男の新太郎(のちの有馬頼徳)が久留米藩の嫡子と定められた[4]。
家族・親族
正室の佐倉藩主堀田正順の三女、八十[3]。
『平成新修旧華族家系大成』には、子として以下が記載されている。
脚注
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
- ^ 篠原(1981年)、p.572
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上、p.60
- ^ a b c d e 篠原(1981年)、p.53
- ^ 篠原(1981年)p.571
- ^ 篠原(1981年)p.53では、「3月28日」としている
- ^ 篠原(1981年)p.572によれば、これは届け出上の日付で、実は12月16日没という
参考文献