有馬 頼善(ありま よりよし[1])は、江戸時代中期の筑後国久留米藩の世嗣。
生涯
安永8年(1779年)1月15日[3]、8代藩主・有馬頼貴の次男として誕生[1](夭折した男子が1人いるため、三男と記されることもある[3])。母は側室の「きくえ」[4]。
兄・頼董が14歳で早世したため、天明6年(1786年)11月23日に嫡子となる[1]。しかし、生まれつき癇性であり、凶暴であったために[3]、寛政4年(1792年)に久留米への帰国が幕府に願い出られた[2]。寛政5年(1793年)3月25日廃嫡[1]、かわって弟・頼端が嫡子となった。『寛政重修諸家譜』では廃嫡の事情を「やまひ」によるものと記している[1]。
廃嫡後は久留米城内に一室をあてがわれていたが[3]、寛政10年(1798年)6月9日に挨拶に訪れた藩士を鉄砲で射殺する事件を起こし、居室に「御囲」が作られた[2]。
文化13年(1816年)3月23日没、享年38[3]。
鷹司家の娘と婚約していたが、廃嫡に際して破棄された[2]。寛政9年(1792年)には子の政之丞が生まれているが、幼いうちに京都で僧になっている[5]。
脚注
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
- ^ a b c d e 篠原(1981年)p.571
- ^ a b c d e 篠原(1981年)p.53
- ^ 篠原(1981年)p.571が引く『米府年表』による。『寛政重修諸家譜』では「上に同じ」とし、頼董・頼端と同じ高木氏としている。
- ^ 篠原(1981年)pp.571-572
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
- 篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)