有馬 則頼(ありま のりより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。摂津国三田藩主。有馬重則の二男[1]。
天文2年(1533年)、播磨国三津田城(満田城)で誕生した。永禄年間に家督を継承し、三好長慶や別所長治に従う[1]。
天正8年(1580年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受けて中国攻めを開始すると、その嚮導役を務めて戦功があり、秀吉から播磨淡河3200石を与えられた[1]。
天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いにおいて長男・則氏を失っている。その後も九州平定、朝鮮出兵などに参加し、いずれも功を挙げた。豊臣氏による伏見城築城にも功績があり、1万5000石まで加増されている[1]。なお、次男・豊氏も秀吉に仕えており、父とは独立して所領を得ている。
則頼は茶人としても高名であり、秀吉に御伽衆(相伴衆)として仕えた。薙髪後は刑部卿法印を称し、同様に御伽衆を務めた金森長近(法印素玄)・徳永寿昌(式部卿法印)と共に「三法師」と称された[1]。
秀吉の死後は子の豊氏と共に徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦した。その功により慶長6年(1601年)1月18日、1万石を加増され、摂津有馬氏縁故の地である摂津有馬郡三田2万石に転封となり、三田藩を立藩している。
慶長7年(1602年)7月28日、三田において70歳で死去。淡河の天正寺に葬られた[3][2]。遺領は丹波国福知山藩主となっていた次男の豊氏が継承した。
豊氏は、のちに大坂の陣の軍功により久留米藩初代藩主となっている。
正室梅窓院との間に四男五女があったという[1]。『寛政重修諸家譜』は四男四女を記し、則氏・豊氏と女子4人を梅窓院の子、則次・豊長を庶子とする。
1602年から丹波福知山藩に併合され、一旦廃藩。1626年に復活。