星野 眞吾(ほしの しんご、1923年(大正12年)8月15日 - 1997年(平成9年)12月29日)は、昭和期から平成期にかけて活動した日本の画家である。妻は、同じく画家の高畑郁子(創画会会員)。
生涯
愛知県豊橋市魚町に生まれ、同県豊川市牛久保町で育った。豊橋第二中学校(現・豊橋東高等学校)在学中から、水彩画・油彩画を描くようになった。また、この時期に中村正義と出会った。
1944年(昭和19年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科を、1948年(昭和23年)に京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)日本画科を卒業。同窓生11人と「グループ・パンリアル」(翌年、「パンリアル美術協会」に改称)の設立に参画した。星野らは自らの作品を「膠彩画(こうさいが)」と称し、伝統主義的、形式主義的な従来の日本画とは異なるものであるとした。以後、星野は厚紙や和紙のコラージュによる抽象画などの実験的作品を制作した。
1960年代半ば頃から、作風に大きな変化が現れた。その大きな要因は、父の死であった。自分が存在していたことの証を肉体が滅びた後も残したいとの思いを強くした星野は、糊を塗った身体を和紙に押し当て、その上に顔料をまぶすことにより、和紙の上に自らの身体を投影する、「人拓」という手法を多用するようになった。
1949年の「第1回パンリアル展」以来、星野は継続して同展に作品を寄せてきたが、パンリアル美術協会結成30周年の節目となる1977年、「第35回パンリアル展」への出品をもって協会を脱退した。これと前後して中村正義らと「人人会(ひとひとかい)」を結成し、精緻な写実的描写による異世界の構築を試みるなど、日本画の革新を目指して活動した。晩年には白内障や緑内障に苦しみながらも創作活動を続けた。
1997年12月29日死去。74歳。1999年、郷里の豊橋市により、日本画の新進作家を対象とした「星野眞吾賞」が制定された(選考は3年に1回実施)。
主な作品
- 『船出』(1952年)
- 『夜の童話』(1953年)
- 『ガン』(1957年)
- 『心象(散)』(1962年)
- 『人体による作品』(1966年)[1]
- 『生きもの』(1971年)
- 『終曲』(1975年)
- 『猫が落ちる』(1985年)[2]
- 『奥の手』(1997年)
年表
註
外部リンク