日暮 泰文(ひぐらし やすふみ、1948年10月 - 2024年5月30日)は、日本の音楽評論家。ブルース・インターアクションズ(Pヴァイン・レコード)創業者。
東京都新宿区柏木に生まれ神奈川県藤沢市で育つ。茅ヶ崎北陵高校を経て慶應義塾大学法学部卒。
中高時代に米ポピュラー音楽、特にリズム・アンド・ブルースに心酔し、ブルースの世界に深く入る。大学在学中の1968年に鈴木啓志とともにブルース&ソウル・ミュージック愛好会を設立。中村とうようによって1969年に刊行された月刊誌『ニュー・ミュージック・マガジン』のレギュラー・ライターとなる。
ブルース愛好会の機関誌を発展させる形で雑誌『ザ・ブルース』を1970年に刊行、76年以降隔月刊全国誌となる。1971年に初来日したB.B.キングの評価をめぐる中村とうようとの論争が話題となる。1981年に誌名を『ブラック・ミュージック・リヴュー』(bmr)に変更。90年代以降、『ブルース&ソウル・レコーズ』、『ポップ・アジア』、『ロック画報』、『クッキーシーン』、『フェイダー・ジャパン』といった雑誌を発行する。
まったく未開拓だったブルースのマーケットを広げ、音楽の魅力を知らしめるべく、トリオレコード(ケンウッドのレコード部門)を説得、1973年にシカゴのデルマーク・レコード原盤によるブルースのシリーズ発売にこぎつけ、ブルースがブーム化する。
1975年、高地明とともに有限会社ブルース・インターアクションズを設立(後に株式会社化)、代表取締役に就任。翌年同社のレーベル、Pヴァインから海外オーナーとのライセンス契約に基づくLPリリースを開始する。独立レーベルが洋楽をライセンスの下に日本発売するという形を確立、そのパイオニアとなる。
ブルース/ソウルからジャンルを広げ、アフリカ音楽、レゲェ、ハイチ、ラテン、ゴスペル、ジャズ、オルタナティヴ・ロック、ヒップホップ、邦楽等もリリース、約30年後には凡そ3,000タイトルのレコード、CD/DVDのカタログを持つ、世界レヴェルでも有数規模のレーベルに成長させる。
1979年より、ブルース・インターアクションズはプロモーターとしてブルースマンの招聘を「ザ・ブルース・ショウ」として行う。毎年恒例のライヴとしてアール・キング&ジョニー・アダムズ、オーティス・ラッシュなどのツアーを行なった1986年まで継続、その間ローウェル・フルソンやジョン・リー・フッカー、アルバート・コリンズ他の来日公演を実演した[1]。
2007年、所有していた株式会社ブルース・インターアクションズ、Pヴァイン・レコード株式会社、(株式会社ペトロ・ミュージックの全株を株式会社スペースシャワーネットワークに売却譲渡、経営から離れる[2]。
2008年、株式会社フライアーズ・ポイントを設立、高地明の株式会社ブライト・エコーズとの共同制作で、主に新規の録音を手掛ける。
2024年5月30日に死去。75歳没[3]。
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