広島湾要塞(ひろしまわんようさい)とは、広島湾と呉軍港の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である。当初は呉要塞と呼称した。
広島湾と呉軍港への敵艦船の進入を阻止するため、音戸瀬戸・早瀬瀬戸・那沙美瀬戸・大野瀬戸に要塞砲台の設置が検討された。1887年(明治20年)1月の計画では早瀬瀬戸・那沙美瀬戸の防禦案であったが、1893年(明治26年)2月には四つ全ての瀬戸の防禦計画が決定された。具体案の計画中に日清戦争が開始されたため、工事が開始されたのは1897年(明治30年)になってからである。
砲台建設は、1897年(明治30年)3月、大那沙美島砲台から開始され、1903年(明治36年)12月までにすべての砲台が竣工した。
日露戦争後の1909年(明治42年)に参謀本部で作成された要塞整理方針案で、海峡を防備すれば内海の領有は確保できるという考えが示された[1]。従来の由良要塞(紀伊水道)、下関要塞(関門海峡)に加え、豊予要塞(豊後水道)を新設すれば内部にある要塞は要らなくなるというのである[1]。この計画は先送りされたが、第1次世界大戦が終わった1919年(大正8年)に再びとりあげられ、豊予要塞の建設が着手された[2]。豊予要塞の完成をうけて、1926年(大正15年)8月1日に、広島湾要塞は廃止された[3]。
呉市
倉橋島
西能美島
大奈佐美島
厳島
呉要塞司令官
広島湾要塞司令官
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