平鹿川 泰二(ひらかがわ たいじ、1924年3月31日 - 1992年4月11日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現役当時、現・同県横手市)出身で立浪部屋(入門時は春日山部屋)に所属した元大相撲力士。本名は佐藤 泰治(さとう たいじ)。最高位は西前頭13枚目(1957年5月場所)。現役時代の体格は179cm、100kg。得意手は左四つ、上手投げ、下手投げ[1]。
地元の小学校を卒業後上京し、蒲田区(現・大田区)内の製薬会社に勤務していたが、16歳の時に角界入りを決意。元関脇・藤ノ川雷五郎が率いる春日山部屋へ入門し、1941年1月場所で初土俵を踏んだ[1]。同期生には、後に年寄・春日山を襲名する事となる藤川(後、「信州」から「大昇」へ改名、最高位・前頭筆頭)らがいる。藤川は、同じ春日山部屋に同時入門した兄弟弟子でもあった。
その後、春日山親方が部屋の運営を諦めた事に伴い、1946年11月より旧春日山部屋の力士達の多くは立浪部屋に移った。
1948年5月場所で新十両に昇進したが、十両上位で苦戦した上怪我などもあり、十両下位と幕下上位とを往復する生活が長く続いた。だが、幕下陥落3回を経て、1955年5月場所での十両優勝を機に上昇気流に乗り、翌年1月場所にて念願の新入幕を果たした[1]。入幕時の年齢は、31歳であった。
左四つからの上手投げや下手投げを得意手としていたが、勝ち味が遅く、そのため幕内では大きく勝ち越す事ができなかった。しかし、大負けする事も無く、少しずつ昇進していった。
だが1957年3月場所中、若瀬川との一戦で右膝を負傷して途中休場し、翌場所では負け越しながら番付が上がるという幸運にありつくも再度休場する事態に陥ってしまった。同場所での地位が、結果的に自己最高位になったのが皮肉であった。
以後はこの怪我の後遺症と体力の衰えもあって長く十両に低迷し、最後は幕下9枚目まで陥落して、1959年9月場所を以って廃業。
廃業後は東京都中央区にて、寿司店を経営したという。
1992年4月11日、逝去。68歳没。