岩井商店(いわい しょうてん)は、岩井勝次郎が明治29年(1896年)に創業した鉄鋼商社で、岩井財閥の中核企業である。1968年に日商(鈴木商店系)と合併して日商岩井(現:双日)となった。
岩井文助は天保13年(1842年)3月3日、丹波国北桑田郡上平屋村(後の京都府南丹市美山町上平屋)の岩井仁右衛門と妻・梅の三男・市郎として生まれた。上平屋は箪笥製造が盛んな地域であり、岩井家も農業の傍ら箪笥を製造し、また質屋を営んでいた[1]。嘉永6年(1853年)大坂浄覚寺町の唐物問屋・加賀屋徳兵衛の店に奉公に出て文助の名を得た。文久2年(1862年)、文助21歳の時に徳兵衛の別家となり独立。加賀屋の屋号で大坂京町堀通り[2]に店を開き、西洋雑貨の小売業を始めた。慶應4年(1868年)には南久太郎町六丁目[注釈 1]の屋敷を買って移転。明治初期には幅広い舶来品を扱う仲買商となっていた。文助は不動産の所有を好み、事業の拡大と共に屋敷周辺の土地も次々と購入している。
一方、文助の従弟(文助の母の妹・いとが再婚して生まれたのが勝次郎とされる[3])にあたる蔭山勝次郎は文久3年(1863年)に丹波国南桑田郡旭村の農家に生まれた。勝次郎は明治8年(1875年)文助方に奉公に出ると、明治22年に文助の長女・栄子と結婚して婿養子となり、岩井勝次郎となった。
以後の加賀屋は文助と勝次郎の共同経営の性格を持つにいたった[注釈 2]が、事業観の相違を感じた勝次郎は文助に二十万円を借りて明治29年(1896年)に自分の店を出した。現在の大阪市中央区南久太郎町4丁目[4]に店舗を設けた。これが岩井商店のはじまりで、大正元年(1912年)10月、加賀屋文助からの創業50周年を期に、株式会社岩井商店となり、さらに昭和18年(1943年)6月、政府(軍部)の指導により岩井産業株式会社と改められた。その後、1968年に日商と合併して日商岩井となった。証券コードは8056(現、日本ユニシス株式会社)。
岩井商店が鉄鋼商社としての体制を確立したのは、明治の中頃から大正にかけてのことである。岩井商店が初めて金属を輸入したのは、明治29年にロンドンのダフ商会を代理店として、勝次郎が直貿易を開始した時期であった。その後ダフ商会のほかにも、ニューヨークのマークト商会からUSスチールの薄鉄板、軟鋼板、軟鋼棒、帯鉄などを輸入し、またハンブルクのホイエル商会からも針金を輸入した。岩井商店が鉄鋼商社として特色付けられた他の理由として、官営八幡製鐵所の製品を明治末年~大正期の頃から払い下げを受けるようになったことが挙げられる。
八幡製鐵所では明治38年(1905年)から鋼材の民間払い下げを開始し、明治末年の頃から三井物産を中心とした「三井組」や、関西の鉄鋼問屋によって株式会社大倉組を代表とした「大倉組」が結成され、鋼材の払い下げが実施された。当時大倉組の主力メンバーには、鈴木、岩井、安宅、岸本の関西有力商社のほかに、東京の森岡商店(森岡興業)が加わっていた。岩井商店はこうした取次式の商社機能を基盤にして、次第に輸入品の国産化構想を具体化するに至った。それは輸入品を国産化することによって、外貨を節約し、国益の増進をはかることを意図したものであった。そうした経営理念によって、岩井では明治末年から大正期にかけて各種工業会社の経営に乗り出した。
岩井商店は大正元年(1912年)10月に資本金二百万円で株式会社化された後、大正7年には五百万円に増資。三井、鈴木、湯浅と並んで政府指定の米穀輸入業者に選定される。昭和4年にはシドニー、同7年にはメルボルンにも進出して大規模な羊毛の買い付けをはじめ、またアフリカや中国から専売局へ納入する塩の輸入で大きく発展した[5]。
このように、岩井商店では明治末年から大正期にかけて見られた重化学工業の流れに対応して工業化路線の道を歩んだ。後のビッグビジネスになるダイセル、富士フイルム、日新製鋼、トクヤマ、関西ペイントなどの各企業が岩井の全額出資あるいは資本参加により創設され、その発展をみている。そしてこれらの関連企業の社員に関しては戦前まで岩井商店で一括した採用を行った。また大正5年(1916年)には他の財閥同様に持株会社を設立(合資會社岩井本店、のち当社に合併)、関連会社を統括した。
〈1924年(大正13年)時点〉