山本 達郎(やまもと たつろう、1910年〈明治43年〉6月16日 - 2001年〈平成13年〉1月24日)は、日本の東洋史学者。東京大学名誉教授を務め、文化勲章も受賞。元号『平成』の名付け親である。妻は原邦造の次女・澄子(壽美子[2])。
東京生まれ。父は貴族院議員を務めた松村真一郎。第5代日本銀行総裁をはじめ、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣などを歴任した祖父・山本達雄男爵の養子となり家を継いだ[3]。幼少期は新しい幼児教育を謳ったベラ・アーウィン[注 2]の玉成(ぎょくせい)幼稚園に通い[4]、第2回卒園児となる[注 3]。
1933年(昭和8年)に東京帝大文学部東洋文学科を卒業後、東方文化学院研究員を務め[6]、1934年(昭和9年)発表の論文「鄭和の西征」で注目される[10][11]。東京高校講師を経て、1942年(昭和17年)東京帝大助教授、1949年(昭和24年)4月には東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)へ昇任。同年11月には毎日奨励金を受けてハーバード大学へ留学する[12]。1951年(昭和26年)東京大学より文学博士の学位を取得 [13][14]。1952年(昭和27年)には、『安南史研究』で日本学士院賞を受賞する[15]。1953年から東洋文庫の評議員・理事を歴任し[16]、その間に同文庫の近代中国研究委員会(現:東洋文庫 近代中国研究班)を発足させる[17]。東京大学の学科主任を長く務め1971年(昭和46年)定年。退官後は国際基督教大学教授[21]、 イェール大学客員教授[11]、コーネル大学客員教授[11]などを務めた。日本学士院会員。
専攻は東南アジア史・インド史。南方史研究会(現・東南アジア学会[注 4])を組織した。 2001年(平成13年)に心不全により死去[25]。蔵書は生前の志により東洋文庫に加わった(第二次大戦で消失したものを除く)[26][27][28][29]。墓所は青山霊園[30]
昭和末年から、日本国政府より昭和天皇崩御を想定した「新元号」について委嘱を受けており、山本が勘進した「平成」は、1989年(昭和64年)1月7日の明仁親王即位に伴う改元による新元号となった[31]。ただし山本自身が『平成』の勘進者であった事実を述べることは最期までなかった[32]。
以下、『20世紀日本人名事典』「山本 達郎」による。
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