山内 氏勝(やまのうち うじかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。蘆名氏の家臣。陸奥国中丸城主。奥州(会津)山内氏15代当主。
奥州(会津)山内氏は陸奥会津郡伊北郷[2]を支配した国人。代々黒川城主・蘆名氏に臣従していた。
天文7年(1538年)、山内舜通の嫡男として誕生。
天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされるが、氏勝は居城・中丸城、その落城後は水久保城に拠り、政宗に抵抗を続けた。その間、豊臣秀吉の意を受けた石田三成や上杉景勝の助勢もあり、ついには翌年の奥州仕置までに水久保城を持ちこたえることができた。しかし戦後の奥州仕置によって旧蘆名領は全て蒲生氏郷に与えられるという裁定がなされたため、結果として所領を失うことになり、その後は越後国魚沼郡に蟄居したという。政宗との交戦中、三成から本領を安堵するので秀吉が会津に攻め入るまで政宗との戦いを継続せよという旨の書状が氏勝へ送られたが、結局は反故にされた。
所領没収後は出家し、俊勝と号した。
子孫にTRFのSAMがいる[4]。
山内氏勝-横田氏重-氏澄[5][3]-氏秀-氏清-氏純-氏昭-玄庵[6][7]…五郎[8]-丸山正-正義-SAM