小飼 弾(こがい だん、1969年8月17日 - )は、日本のオープンソース開発者。コンピューターネットワークの構築・機材販売、文書翻訳、コンサルティング業務などを行なう、株式会社ディーエイエヌの代表取締役。dankogai、ダンコーガイと呼ばれることもある。日本のWEBプログラミングの草創期から活躍している[1]。その膨大な読書量からなる書評などを主な題材とするブログで知られ、アルファブロガーを自認する。オン・ザ・エッヂ(後のライブドア)の元取締役。
東京都出身。初めて言葉を話したのは3歳位と遅かった(5歳説もある)[9]。父親から日常的に怒られ、暴力を振るわれ育った[10][11]。基本的には父が家にいる週末はあまり家にいないようにしていた[2]。ルービックキューブを目をつぶった状態で、解法を自分で見つけて日常的に解いていた[9]。
中学入学後に学校教育に疑問を感じ、中学2年生頃から学校には行かなくなった。[2]。学校行かなくなった代わりに、図書館で百科事典など様々な本を読んでいた。学校の大多数に教える教え方は効率が悪く、こちらのほうが勉強に無駄がなかったという[2]。それでも定期試験の際には登校して試験を受け、テストは100点、常に1位か2位の成績を取ったという[2]。しかし教師から反感を買っており5段階評価中4か3だった[9]。
公立の図書館に行くのは「陽気な逃避」だったと話し、図書館では借りられる冊数は1人10冊までだったため、一家全員の名義を借りるだけでも足りず他の人の名義も借りて1度に70~80冊くらい借りていた。カバンでは入り切らないので段ボール箱を持っていって、それに入れていた[2]。
中学卒業後すぐに16歳で大検取得し、17歳でカリフォルニア大学バークレー校に入学する[12]。日本では大検の効力が発生するのが18歳のため、留学するまでは家庭教師や塾講師として年上の生徒を教えていた[13]。また肉体労働の経験もしている[14]。大学時代は入学当初は分子生物学を選択していたが、実験がヘタで、データをいじるときにコンピュータを使い始めた[6]。
大学4年の時に実家が全焼、学校を休学する[9]。コツコツ貯めていた7000~8000冊の本が灰になった[2]。大学で学んだコンピュータで生計を立て、29歳の時オン・ザ・エッヂの堀江貴文元社長にヘッドハンティングされる[9]。
PerlのEncode Moduleのメンテナンスをしている。Ver5.8の開発にもかかわった[6]。
今でもプログラムを書いており、内容は様々。受け身の性格なので、「弾さんでないと無理かな」と依頼される仕事が多い。仕様さえくれれば何でもつくれ、予算をもらえればGoogleのシステムでさえ開発できる[6]。
単にプログラミングをするのではなく、「プログラム+α」が大事だと思っている。プログラミングは、コンピュータ上で何かを動かす仕組みをつくる手段、コンピュータが解釈できる段取りを組む手段であって、それ自体は全然大したことがない。大切なのはプログラマが「何をするか」を決めることである[6]。
新書を読むべきとしている。新書は“本の器”としてベストな形状で、手に持ちやすく、適度にしなるので読みやすい[15]。
Perlの開発者であるラリー・ウォールと親しい。「Perlは世界初のポストモダン・プログラミング言語である」というスピーチを貰ったことがある[6]。
英語版ウィキペディアには「Naked Gun」や「Eat It」の項目が存在するということで、日本語版にスタブ状態の「窓の社」(インプレスによる窓の杜のセルフパロディ)を立項したところ、直ちに削除審議にかけられ消されたため、ウィキペディア日本語版を「他人の行為にケチをつけずにはいられない人たちが集まっている場所のようだ」と批判している[16]。