小山 成長(おやま しげなが)は、室町時代から戦国時代の武将。小山氏当主。下野守。
幼名は梅犬丸、通称は小四郎[1]。
父は小山氏一門の山川景胤[2]。大おじで先代の小山持政の嫡子・氏郷と嫡孫・虎犬丸が早世したため、養子として迎えられた[2]。
文明3年(1471年)12月から同10年(1478年)2月の間に小山氏の当主となった[2]。同12、13年頃、古河公方・足利成氏より偏諱を受けて成長(「長」は鎌倉時代の小山氏歴代当主の通字)と名乗る[3]。
小山氏は、文明3年(1471年)に、先代・持政が成氏から離反していたが、成長の代になり、再び古河公方との緊密な関係を持つようになっていた[4]。やがて古河公方家で足利政氏・高基父子の内紛が始まると、成長は政氏に味方して、政氏方の中心勢力となった[4]。次第に劣勢となった政氏は、永正9年(1512年)6月、古河城を退去して成長を頼り、小山祇園城に入った[5]。
同11年(1514年)7月、政氏の命を受けた成長は、佐竹義舜・岩城由隆らとともに、高基方の中心勢力である宇都宮城や古河城を攻撃したが、援軍として結城政朝が出陣したために、撃退された[6]。この頃になると、高基は出奔先の関宿城から古河城に戻り、事実上の古河公方としての地位を掌握しつつあった[5]。
こうした状況下で、同13年(1516年)、小山氏も政氏方から高基方に転じた[6]。この背景には成長と子・政長の間に意見の対立があった可能性が強く、政長の主張から高基方に転じたと推測される[6]。この頃から政長が小山氏の実権を握るようになる[6]。政氏は祇園城を追われ、隠居を余儀なくされた[7]。
成長は出家して孝尹と号し、大永から享禄頃(1521年から1531年頃)まで生存した[6]。
大中寺(栃木県栃木市大平町)は、延徳元年(1489年)、成長を開基とし、快庵妙慶をもって開山とした[8]。
1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係 2) 構成の都合で出生順通りではない 3) *は同一人物 ※略系図出典[9][10][11][12]
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