小寺氏(こでらし)は、日本の武家氏族の一つ。
播磨の守護大名・赤松氏一門宇野氏の庶流であり、姫路城のち御着城を本拠として勢力を伸ばした[3]。
小寺氏は、赤松氏の祖である赤松頼範の四男将則を遠祖として、将則の曾孫宇野頼定(うのよりさだ)の次男頼季(よりすえ)が小寺氏を称したと伝えられている。一説に小寺氏は同族の宇野氏の婿養子として入ったともいう。頼季には二子があり、頼秀の流れは美作国岩屋城主を務め、景治(かげはる)の流れは播磨国姫路城主を務めた。後者は事実上小寺家の宗家として扱われており、景治は南北朝時代における正平12年(1357年)の八幡における戦いで戦死しており、『太平記』にもその名が見えている。赤松円心の次男・貞範は、播磨国の姫山に城を築いた。これがのちの姫路城であり、同城は代々小寺氏が守り、姫山城と呼ばれた。
嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が足利義教を殺害し、嘉吉の乱が起こった。満祐は京都の自邸を焼き払い、播磨に下国し坂本城に籠城した。この事変に際し、小寺氏も宗徒八十八騎の一家として参集したことが『赤松盛衰記』にみえている。このとき小寺景治の孫である職治(もとはる)は、満祐から備前口の備えとして上原・薬師寺氏ら八百騎の大将を命ぜられている。しかし、松田・勝田氏らの謀反によって備前口の備えは崩壊し、最後は城山城で自害した。
職治の子・豊職(とよもと)は、赤松家再興のために長禄2年(1458年)、後南朝の神璽奪回(長禄の変)に参加。その功で赤松政則は室町幕府から加賀北半国の守護職に補され、小寺氏は、加賀守護だった富樫氏被官人と抗争して加賀支配に従事した[4]。応仁の乱では赤松政則の奉行人として活躍した。豊職の子・政隆(まさたか)は永正16年(1519年)に新たに御着城を築き、姫路城は子の則職に譲った。
応仁の乱をきっかけとして、世の中は下剋上が横行する戦国時代となり、赤松家中では守護代浦上氏の台頭が著しく、守護の赤松氏を凌ぐほどになった。この時、小寺政隆は赤松氏に属して浦上氏と戦い、享禄2年(1529年)庄山城で討死した。またこれに先立って永正17年(1520年)、則職が美作国岩屋城を襲撃させられているが、小寺軍は浦上村宗の重臣宇喜多能家に撃退されている。このように小寺氏は、備前の浦上氏や東播磨の別所氏のように独立志向の高まる赤松重臣の中でも主家赤松氏に従って行動している。政隆の死後、御着城に移った則職は播磨国内での数々の戦いを制して勢力を拡大し、西播磨の有力勢力に成長した。特に則職は天文14年(1545年)に御着城主を子の政職に譲り、天正4年(1576年)に没した。
やがて、東の織田、西の毛利の二大勢力が台頭してくると、政職は重臣・小寺孝隆(後に黒田孝高(官兵衛)と改名)の言に従い、織田方に付く。その後、毛利氏の部将浦宗勝が率いる毛利軍五千人を千人の兵で撃退し、織田信長から感状を与えられる。この勝利は、後に秀吉の軍師として竹中重治と並び称された孝高の作戦によるものであったと『黒田家譜』にはあるが確たる証拠はない。しかし、三木城城主別所長治の裏切りや有岡城城主荒木村重の反乱などに動揺し、毛利方に離反する。その後、織田方の攻勢で三木城と有岡城が落城すると、御着城を捨てて備後の鞆へと逃亡し、天正14年(1584年)に没した[5][注釈 1]。こうして、大名としての小寺氏は滅亡した。
政職の子・氏職、政職の甥(弟・貞政の子とされる)横寺宗政はいずれも黒田氏に仕え、子孫は藩主黒田氏の下、筑前国福岡藩士として存続した。ほか政職の遺児である天川正則が播磨へ土着し、政職の弟・則治の子孫は丹波国氷上郡東芦田村に土着したとされる。
室町前期に美作国岩屋城主を務めた流れの小寺氏は、嘉吉の乱後は播磨国庄山城主に返り咲いていたが、祐職(すけもと)が小寺則職の岩屋城攻めに従軍して戦死。その後も御着小寺氏の配下にいたが、曾孫の隆遠の代に織田氏と敵対した赤松政範に属したために没落したとされている。先述の則治は明石郡小寺城主を務めていたが、三木合戦で没落したという。
一方で小寺政隆の代に登用されて小寺氏を賜っていた姫路城代・重臣の黒田氏は、小寺氏が織田氏から離反した後も織田氏に従い続け、小寺氏滅亡の後に黒田氏へと復姓し、近世大名として存続した。小寺氏本流が仕えた福岡藩はその直系である。
2014年には小寺政職の終焉の地との伝承が残る兵庫県太子町広坂で、政職の子孫と周辺住民約40人が集まって政職を顕彰した[6]。