宮田 光雄 (みやた みつお、1928年(昭和3年)6月4日 - )は、 日本の政治学者・思想史家。学生伝道者。東北大学法学部名誉教授。専攻は、政治学、ヨーロッパ政治思想史[1]。
高知県[2]長岡郡本山町生まれ。1945年、土佐中学校卒業[2]、1948年、旧制第三高等学校(理科乙類)卒業[2]。1951年(昭和26年)、東京大学法学部政治学科卒業[2]。1956年、東京大学大学院特別研究生中途退学[2]、東北大学法学部助教授[2]。1958年から政治学史講座担当(- 1970年)[2]。1963年、同教授[2]。1989年、同志社大学神学部から神学博士号を授与される[2]。1992年退官、名誉教授[2]。本山町名誉町民[3]。
南原繁に学び、丸山真男の影響を受けながら、独自の立場を形成した。民主主義を支える精神の確立と、その対極としてのファシズムの構造の解明を自己の課題とし、多くの著書を次々と発表している。他方では、1960年(昭和35年)前後から「宮田学生聖書研究会」を主宰し、独立伝道者として学生に対する伝道・教育活動を行った。
この間に政治学で蓄積した成果をキリスト教倫理の中で生かすことを生活目標にして、時代の政治問題に関する論評を新聞、雑誌に発表する一方、福音を伝えながら「世俗内禁欲」「召命」が何かを多くの人々に語りかけてきた。当初、家庭で開かれていた「宮田学生聖書研究会」には、仙台に在住する学生が集まり、聖書研究を主軸に、「キリスト者は現代社会にいかに関わるか」を討論する集いへと成長していった。さらに1972年(昭和47年)には、私財を投じて学生寮「一麦学寮」を設立。大学紛争後の学園の精神的砂漠化を背景にして、集会参加者は急増し、毎回約三十人が集った。集会参加者は2004年(平成16年)の解散までにトータルで、おおよそ2000人を超えた。学生が大学を卒業後も一人一人を見守り、個人誌『みちのく通信』『一麦通信』を発行して激励しつづけた。また、東京を始め、多くの地域でOB会が開催されてきた。集会OBの多くは、学生時代、キリスト教とは無関係の状態からイエス・キリストへの信仰に導かれた者たちであった。彼らは、卒業後は、日本基督教団など、さまざまの教派の教会に所属し、牧師や神学者、オルガニスト、社会奉仕活動、キリスト教主義の学校教師、あるいは画家など、教会の内外で優れた働き手として活躍している。
蔵書の多くは東北大学付属図書館「宮田文庫」に寄贈[1]。また、自由民権運動の地であった郷土への思いも熱く、高知県本山町公民館にも多くの著書を寄贈している。