定額寺(じょうがくじ)とは、奈良・平安時代に令制国内で官寺に準ずる扱いを朝廷から受けた私寺。官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院。その歴史上での展開には諸説ある。
定額寺の「定額」が一体何を指しているのかについては、諸説があって結論が出されておらず、従ってその具体的な定義を行うのは困難である。
大きく分けると次の5説があるが、いずれも反論が出されており、通説になるには至っていない。
以上のように定義が定まっているとは言えないために、その実態把握も困難である。定額寺を寺号と結びつける見解を採った場合には、天武天皇8年(769年)に諸寺の寺号を定めた件に起源を求めることとなり、続いて霊亀2年(716年)に出された寺院整理令の詔に「寺家(私寺)が争って題額を求めた」とする件が見られる。
「定額寺」という語の初出は、『続日本紀』に記されている天平勝宝元年7月13日(749年8月30日)に寺院に対する墾田地の制限を定めた際に「定額寺、寺別一百町」とする記事である。以後、六国史をはじめとする諸記録に「定額寺」の語が現れるようになる。
こうした記事から分かるのは、定額寺の多くは元は皇族・貴族・豪族などが建立した私寺であったものが多かったということである。特に私寺に対する禁令が強化された延暦年間以後に定額寺に列する寺院が急激に増加しており、国家の抑圧の対象となった私寺を官寺への編入申請する事で抑圧を回避を図る動きがあったと考えられている。また、私寺の建立者である檀越も定額寺指定後に完全に寺との関係が絶たれたわけではなかった。
定額寺に指定されるとその内容は寺院によって違いはあるものの、基本的には定額寺のある国の国司・講師(国分寺の僧侶の長)は、定額寺に修理料・燈分料を与え、修造の義務、定額僧や年分度者の配置に対する便宜などが行われたが、その一方で定額寺側にも資財帳作成と国司・講師・三綱・檀越が共同で行う検校処分を受けることを義務付けられていた。さらに、寺内の三綱人事権を掌握されるなど、定額寺及び檀越に対して厳しい統制を受けた。
だが、律令制が弛緩すると、僧尼令をはじめとする仏教統制の法制は形骸化し、一方で修理料や燈分料規定も空文化するようになった。このため、定額寺の中には統制だけが残った定額寺の格式を嫌ってこれを返上する寺院も現れた。一方で、天皇などが建てる寺院が、あくまでも朝廷内では有効法であった私寺建立禁止の規定に反しないようにあらかじめ定額寺として建立する例が見られるようになる。やがて、こうした定額寺は御願寺の原型となった。正暦元年(990年)に尋禅が建てた延暦寺妙香院が定額寺の指定を受けたのを最後に歴史から姿を消すことになる。
なお、延慶元年(1308年)に、北条貞時の申請によって臨済宗の円覚寺と建長寺が定額寺とされている[1]。
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