宗像 徹(むなかた とおる、1974年(昭和49年)3月27日 - )は、福島県田村郡(現・田村市)出身の現調教助手・元騎手。
遠戚に障害専門騎手として活躍した三浦堅治がいる[4]。
中学3年次の1989年に母方の祖母が亡くなり、通夜に行ったところ、そこにたまたま三浦の父が来ていた。三浦の父は最初は兄に「ジョッキーになれ」と勧めていたが、兄は高校へ通っていて、就職も決まっていてということで、隣にいる宗像を見て「ジョッキーっていう職業があるよ」と勧める。宗像はそれまで競馬のことは全然知らなかったが、三浦の父から言われたのがきっかけで競馬に興味を持つ。真剣に勧められてから少しずつテレビで競馬を見るようになり、最初に見たレースは第9回ジャパンカップであった[5]。
この時は競馬学校の試験期間が過ぎていて試験を受けられず、卒業後は1年間高校に通った。中学の頃は特に何をやりたいというのが無く、ラジオなどを分解したりするのが好きで、漠然と機械系の仕事をしたいとは思っていた。運動神経はどちらかと言うと悪い方で、足は遅いし、球技も特別上手いわけではなかった。乗馬経験はほとんど無い状態で、中学生の時に牧場へ行って馬に跨って散歩する程度であった[5]。
競馬学校に両親と一緒に行って2次試験の面接を受けた時は緊張し、宗像一人に対して面接官が10人ほどいた。親は宗像が騎手になるのを賛成とも反対とも言わなかった。2次試験の結果が発表された時は学校にいて、地元の新聞記者が学校に取材に来た。そこで初めて受かったってことが分かり、いきなり校長室に呼ばれたが、その頃は校長に会ったことも無かった[5]。
1993年に競馬学校騎手課程を第9期生として卒業し、美浦・笹倉武久厩舎所属騎手としてデビュー。同期には伊藤直人・飯田祐史・小林徹弥や、後に競馬学校世代で史上初の学士騎手となった川合達彦らがいる。
1年目の同年には平地、障害双方で勝ち鞍を挙げ、重賞にも騎乗。同年の新潟記念をはじめ、2011年まで平地重賞に12レース騎乗し、この中には所属していた笹倉厩舎の代表管理馬であるツインターボへの騎乗も2レース含まれている。なお平地重賞での最高着順は2001年のクリスタルカップ4着となっている。
減量騎手から外れてからもしばらく平地での騎乗を続けていたが、2年目の1994年の325レースをピークに年々騎乗機会が減少したため、1999年には騎乗数確保のためにデビュー年以来乗っていなかった障害競走への騎乗を再開する。
再開後も平地への騎乗は並行して続けていたが、2003年から2004年にかけ障害でのOP特別勝ちや重賞勝利を記録するなど、障害競走での成績は平地のそれを上回るようになり、それにともない騎乗の場は徐々に障害へと移行。
2010年2月1日に結婚式を挙げる[6][7]。2月6日東京第8競走、春麗ジャンプステークスでマイネルネオスに騎乗し落馬、右肩脱臼骨折、右大腿骨骨折の重傷を負った[8]。9月5日にレースに復帰した。
2011年10月31日をもって引退し、堀宣行厩舎の調教助手に転身した[9]。騎手通算成績は2580戦105勝(JRAのみ)であった。