姉小路公朝

 
姉小路公朝
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 不詳[1]
死没 文保元年9月23日1317年10月28日
別名 号:八條
官位 正二位権中納言
主君 亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇
氏族 姉小路家(閑院流)
父母 父:姉小路実尚、母:源兼氏の娘
兄弟 公尚公朝、実昭
姉小路公尚の娘
実次実富
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姉小路 公朝(あねがこうじ きんとも)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿権中納言姉小路実尚の次男。官位正二位・権中納言。

経歴

文永7年(1270年従五位下叙爵。文永8年(1271年)従五位上に進み文永11年(1274年侍従に任ぜられる。建治3年(1277年左近衛権少将に任ぜられ、建治4年(1278年正五位下に叙される。弘安3年(1280年従四位下・右近衛権少将に叙任。弘安8年(1275年)従四位上に昇り、弘安11年(1278年正四位下・左近衛中将となる。

近衛府右近衛中将を経て、正安元年(1299年後伏見天皇蔵人頭に補される。正安2年12月(1301年2月)参議に任ぜられ公卿に列す。正安3年(1301年)3月伊予権守を兼任。同年4月に従三位に叙されるが、小除目により公朝と同日に参議に任じた持明院保藤藤原俊雅らと共に辞任する。

徳治2年(1307年正三位に叙される。延慶3年(1310年従二位に叙され、正和2年(1313年)権中納言に任ぜられるが、わずか1ヵ月後に辞退した。納言に任じた後着陣することは無かった。正二位に叙され、本座を聴される。文保元年(1317年)9月3日に出家し、23日に薨去した。

官歴

※以下、註釈の無いものは『公卿補任』・『姉小路家譜』の記載に従う。

  • 文永7年(1270年)正月5日:従五位下に叙爵。
  • 文永8年(1271年)正月5日:従五位上に叙す。
  • 文永11年(1274年)10月20日:侍従に任ず。
  • 建治3年(1277年)5月14日:左近衛権少将に任ず。
  • 建治4年(1278年)正月6日:正五位下に叙す。
  • 弘安3年(1280年)正月5日:従四位下に叙す。2月7日:右近衛権少将に遷る[2]
  • 弘安8年(1285年)正月5日:従四位上に叙す。
  • 弘安11年(1288年)正月5日:正四位下に叙す。2月10日:左近衛中将に転ず。
  • 永仁7年(1299年)4月24日:右近衛中将に転ず。
  • 正安元年(1299年)4月26日:蔵人頭に補す[3]。当時正四位下・右近衛中将。
  • 正安2年12月22日(1301年2月1日):参議に任ず。
  • 正安3年(1301年)3月14日:伊予権守を兼ぬ。4月5日:辞任。従三位に叙す。
  • 乾元2年(1303年)頃:伊予権守を辞す。
  • 徳治2年(1307年)11月1日:正三位に叙す。
  • 延慶3年(1310年)5月11日:従二位に叙す。
  • 正和2年(1313年)8月7日:権中納言に任ず。9月6日:辞退(任大臣後未着陣)。9月20日:正二位に叙す。本座を聴す。
  • 文保元年(1317年)9月3日:出家。9月23日:薨去。

系譜

脚注

  1. ^ 1250年 - 1265年頃か
  2. ^ または右近衛権少将。
  3. ^ 蔵人補任後伏見院。または4月27日。

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