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如意寺(にょいじ)は兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口にある天台宗の仏教寺院。山号は比金山(ひきんさん)。本尊は地蔵菩薩。
沿革
『如意寺旧記』によれば、大化元年(645年)法道仙人が多聞天の教化により当山に櫨(はぜ)の木に刻んだ地蔵菩薩と毘沙門天[1]を祀ったのが起源とされる。同5年(649年)に孝徳天皇の勅願寺と定められて「三級塔一宇鐘楼堂二階楼門二箇鎮守其外僧院廿四坊」という大規模な堂塔伽藍が建立され、仁寿元年(851年)には円仁が文殊堂を建立した。のちに荒廃し諸堂は傾き雨露に曝される有様であったが、正暦年間(990-995年)願西尼(安養尼)により中興されたという。[2]
法道は天竺(インド)から飛来したとされる伝説的な仙人で[3]、兵庫県南部一帯には法道開基を伝える寺院が点在している。ただし、当寺を法道の草創とするのは伝承の域を出ない。貞応三年(1224年)の「延暦寺政所下文案」では願西聖人の建立とし、寺域は東西16町南北12町に及んだという[4]。いっぽう如意寺にかかわる最も古い文書は仁平2年(1152年)のものであり[5]、発掘調査の所見と併せ[6]、実際の創建は12世紀中葉をさかのぼるものはでないと考えられている。
貞応2年(1223年)には国役を免除され[7]、南北朝時代に三重塔、室町後期には文殊堂の建立がなった。天文8年(1539年)、火災により本堂・諸楼・法器を焼失した。このときの院主一条院泉範は本堂修営の大願を立てて広く浄財を募り、「道俗男女八萬四千人五ヶ年ヲ経テ大願成就」したという[2]。寛文7年(1667年)東叡山寛永寺の末寺となり、江戸時代においてもなお12坊院と朱印地43石余、年貢地80石余、境内として山林東西16町南北12町を認められていた[8]。
昭和時代には阿弥陀堂文殊堂三重塔が、平成時代には三重塔が解体修理された。
伽藍
本堂は老朽化により傾いたため第二次世界大戦後まもなく解体され、礎石をとどめるのみである。創建当初は本堂と常行三昧堂(現阿弥陀堂)の二堂からなる法界寺型の伽藍配置をとっていたとされる。あるいは、本堂跡の東にある三重塔の前身を法華堂に想定し、これに加えて西の常行堂、南の文殊堂という配置を天台宗寺院でも早い時期の遺構として10世紀の願西尼による創建を支持する説もある[9]。
現在は阿弥陀堂・三重塔・文殊堂が残り、3棟とも国の重要文化財指定を受けている。山門は伽藍から遠く離れた位置に独立して存在し、これは往時の寺域の広大さを示している。山門内には鎌倉時代の作とされる塑像の金剛力士(仁王)像2体(阿形・吽形)を安置する。
文化財
重要文化財(国指定)
- 文殊堂(附:厨子) - 入母屋造、本瓦葺き。室町時代、部材の墨書から享徳2年(1453年)の建立と推定されている。傾斜地に建ち、前面を高床式とする点が特色である。
- 阿弥陀堂(常行堂) - 入母屋造、とち葺き形銅板葺き。鎌倉時代初期。正面を全面蔀戸とする。
- 三重塔 - 南北朝時代、至徳2年(1385年)、本瓦葺、高さ21.33m
兵庫県指定文化財
その他
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阿弥陀堂(重要文化財)
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文殊堂(重要文化財)南面
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山門の金剛力士像・阿形
所在地
- 〒651-2237 兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口259
交通アクセス
周辺情報
脚注
- ^ 別伝では、地蔵菩薩と多聞天とする。「播州明石郡比金山如意寺縁起」(『神戸市文献史料 第2巻』神戸市教育委員会、1789年)による。
- ^ a b 「播陽明石之保比金山如意寺旧記」(『神戸市文献史料 第2巻』)
- ^ 「元亨釈書」(『大日本佛教全書 第62巻』)
- ^ 「如意寺文書」貞応三年正月廿二日付「延暦寺政所下文案」(『兵庫県史』史料編中世2)
- ^ 「如意寺文書」仁平二年三月六日付「僧某山野材木施入状写」(『兵庫県史』史料編中世2)
- ^ 『平成6年度神戸市埋蔵文化財年報』(1997年)
- ^ 「如意寺文書」貞応二年十二月付「播磨国司庁宣」(『兵庫県史』史料編中世2)
- ^ 「如意寺寺社改」(『神戸市文献史料 第2巻』)
- ^ 『新修神戸市史』歴史編2古代・中世
外部リンク