多治比 藤善(たじひ の ふじよし)は、平安時代前期の貴族。氏姓は丹墀真人のち多治真人、多治比真人。官位は従五位下・摂津守。
経歴
左馬助在職中の貞観6年(864年)従五位下に叙爵し、翌貞観7年(865年)丹波権介を兼ねる。貞観8年(866年)一族の丹墀貞岑の上表により、丹墀真人姓から多治真人姓に改姓する。
貞観12年(870年)貞観永宝発行の詔が出されて[1]新銭が鋳造されると、葛野の鋳銭所に近い宗像・櫟谷・清水・堰・小社の五神に派遣されて新銭を奉納した[2]。
その後も引き続き左馬助を務め、貞観19年(877年)には従五位上に叙せられている。また、陽成朝の元慶4年(880年)清和上皇の崩御に際して馬寮に派遣されて非常を監護している。
光孝朝に入り、元慶9年(885年)摂津守に任ぜられて地方官に転じる。しかし、任地に赴任しなかったらしく、翌仁和2年(886年)2月にほかの赴任していなかった国司らと共に召問を受け[3]、5月には位階を従五位下に落とされた。
官歴
『日本三代実録』による。
脚注
- ^ 『日本三代実録』貞観12年1月25日条
- ^ 『日本三代実録』貞観12年11月17日条
- ^ 『日本三代実録』仁和2年2月3日条
参考文献