堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。
1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。
1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)を卒業後、西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。
1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
1936年(昭和11年)京都市立絵画専門学校教授に就任。翌年の1937年(昭和12年)には、この年から始まった新文展の審査員に就任した[1]。
1940年(昭和15年)ごろには、新造される戦艦大和に大和神社の分霊を祭るために海軍が奈良県に発注した日本画の製作依頼を受け「戦艦大和守護神」を描く[2]。堂本には建造中の新戦艦に納められることは知らされなかった[2]。奈良県の大和神社の神殿を描いたこの日本画は戦艦大和の艦長室に祭られるが、沖縄への海上特攻前に大和から降ろされ、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館が収蔵している[2]。
1944年(昭和19年)7月1日に帝室技芸員[3]に、1950年(昭和25年)に日本芸術院会員となる。1951年(昭和26年)2月27日には、新たに日本芸術院会員になった者が皇居に招かれたが、堂本は病気を理由に欠席した[4]。
1975年(昭和50年)、心不全のため死去[5]。没日付で従三位に叙せられる。
また、私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。
戦後は抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍。1963年(昭和38年)、大阪カテドラル聖マリア大聖堂に壁画『栄光の聖母マリア』を描く。1973年(昭和48年)にはローマ教皇パウロ6世の委嘱により、バチカン美術館に飾る『母と子』を制作(翌1974年完成)。聖シルベストロ教皇騎士団勲章大十字章を受章した。