埼玉県の貝塚の一覧(さいたまけんのかいづかのいちらん)では、埼玉県内における貝塚の一覧を取り上げる。縄文時代には氷期の終了に伴う海面の上昇(縄文海進)により、現代では海に面していない埼玉にも湾が入り込んでおり(奥東京湾)、多くの貝塚が形成されていた[1]。埼玉の貝塚の数は110か所を越え、とくに縄文海進が進んだ縄文時代前期の貝塚数は多い。
貝塚の年代等については、各種の資料ごとに差異がある。たとえば岩槻の黒谷貝塚は埼玉県の史跡一覧では縄文前期の貝塚とされている[2]が蓮田市の資料では前期のみならず、縄文中期、後期の貝塚でもあるとされる[3]。以上のように資料によって差異があるが、ここでは埼玉県の県指定等文化財リスト[2][4]、埼玉県立博物館の資料[5]を中心に蓮田市の資料[6]など各行政の資料を補助的に使用して採録した。
埼玉で発見されている貝塚の年代は、縄文早期後葉(8000年前頃)から縄文前期後葉(5500年前頃)にかけて増加している。この時期には海は埼玉を越え栃木県西南の渡良瀬遊水地のあたりまで広がり、奥東京湾が形成されていたためであると考えられている。気温ととも海水面が上昇する縄文海進によって、9000年前頃には関東地方の陸地が海に侵食され始めた。縄文海進は6500年前頃にはピークを迎え、現代より2-3メートルほど海面が高い状態にあったと考えられている。縄文海進のピークは5300年前頃まで続いた[7]。しかしその後海面は一旦低下して埼玉の地から海は引き、縄文前期末葉には埼玉には貝塚はあまり見られなくなる[8]。その後、縄文中期初頭以降ふたたび海面は広がっている[9]、3500年ほど前から海は再び後退し始め2000年前には奥東京湾は消滅している[10]。埼玉全体としては縄文前期の貝塚の数が多いが、国の史跡である岩槻の真福寺貝塚や春日部市の神明貝塚、川口市にも県史跡に指定される貝塚群など縄文後期にも複数の貝塚があらわれている[2][8]。
貝塚の主な形成期欄における( )内は時代細分。例えば縄文前期(黒浜)は縄文時代前期のなかで黒浜式土器期の意味。花積下層式期はおよそ7000-6700年前(1950年起点、以下同じく)、関山式期はおよそ6700-6450年前、黒浜式期は6450-6050年前、諸磯式期は6050-5600年前(そのなかで諸磯aは6050-5950年前)、勝坂式期は5380-4900年前、加曾利E式期は4900-4420年前、堀之内式期は4240-3820年前、加曾利B式期は3820-3470年前である[11]。
主たる貝・その他の貝欄には、貝塚を形成する貝の種別を示した。鹹水は塩辛い水、つまり海水のことで、純鹹は海産性の貝(ハマグリ、ハイガイなど)のみで、主鹹は主に海産性の貝で形成されていることを表す。汽水は海水と淡水の混じった河口付近の水のことで、汽水性の貝はヤマトシジミが代表である。またマシジミなど淡水産の貝を主体とするものもある。
埼玉県の貝塚は以下のように分布している。(赤)は鹹水(海水)性、(オレンジ色)は汽水性または淡鹹性、(黄色)は淡水性の貝を主体とする貝塚である。(青)は埼玉県外であるが奥東京湾最奥の栃木市篠山貝塚群や古河市の貝塚群である。縄文海進の最盛期には海がここまで及んでいた。