土居 通芳(どい みちよし[2]、1926年12月9日 - 1975年3月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。脚本執筆時のペンネームは北 一郎(きた いちろう)。シャンソン歌手の石井好子は義姉(土居の兄の妻)。仲間内からはツーホーさんの愛称で親しまれた。
人物・来歴
1926年(大正15年)12月9日、東京に生まれる[3]。
1948年(昭和23年)、上智大学経済学部を卒業後、新東宝に入社、助監督となる。おもに阿部豊、渡辺邦男に師事し、1954年(昭和29年)チーフ助監督となるかたわら、脚本も執筆する。
1958年(昭和33年)、監督に昇進、高倉みゆき主演の『不如帰』で映画監督としてデビューする。土居は大蔵貢社長の大のお気に入り監督で、デビュー作でいきなりカラー・シネスコ大作の担当となった。その後も土居と高倉のコンビ作が多作され、周囲にはやっかみの声もあったという[4]。土居と親しかったという赤坂長義は、土居は「天才的に世渡りがウマイです」と語っている[5]。新東宝では12本を監督した。
1962年(昭和37年)、『嫉妬』を監督した後、テレビ映画に参入した。
1973年(昭和48年)に砂塚秀夫企画・製作・主演の映画『毘沙門天慕情』を監督し、東宝配給で公開されたのが、劇場用映画の最後の作品となった。
1975年(昭和50年)3月16日、死去した。満48歳没。義姉の石井好子によれば病床で「次は空海を撮りたい」と語っていたという。当初葬儀は身内だけで慎ましく行う予定だったが、実際は葬儀委員長に三船敏郎、友人総代・萬屋錦之介、司会・桂小金治という顔ぶれが並び、故人の人望が偲ばれる盛大な葬儀になったという。遺作は、死の約1ヶ月後に放送されたテレビ時代劇『破れ傘刀舟悪人狩り』(NET系)第30話「ささやいた死美人」。
夫人は新東宝の女優(第三期スターレット)だった芝田良子[6]。
フィルモグラフィ
- 特筆以外すべて監督
新東宝時代
1960年代
1970年代
註
外部リンク