吉川 友兼(きっかわ ともかね)は、鎌倉時代の武士、御家人。吉川氏2代当主。
文治5年(1189年)の源頼朝に従い奥州合戦に出陣。その武勇を認められ、翌建久元年(1190年)、頼朝の初入洛にも従った。建久4年(1193年)の富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応にも当たった。
正治2年(1200年)の梶原景時一族追討(梶原景時の変)の際に所領のある駿河国で、梶原景時一行の不審な動きを捕捉し、他の在地武士と共に襲撃して、景時の三男で豪勇で知られる梶原景茂を討ち取る[注釈 1]も、友兼も深手を負っており、そのまま死去した。
友兼は死亡したが、子の朝経が加増され、梶原氏の所領であった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられた。
分家・支流