1953年撮影
3代八馬 兼介(はちうま かねすけ、旧名・栄之介[1]、1894年(明治27年)12月23日[1] - 1960年(昭和35年)8月12日[2][3])は、日本の実業家、政治家、資産家[1]、兵庫県多額納税者[4][5][6][7]。貴族院議員[2][4][5]。神戸銀行頭取[7][8][9]。八馬汽船相談役[10]。勲四等[2]。
経歴
兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。兵庫県平民・八馬永蔵の長男[7][11]。初代八馬兼介の孫[11]。
1916年、早稲田大学商科卒業[2][8][12]。1917年、家督を相続し、旧名・栄之介を改めた[1]。精米及び海運業を営み[1]、傍ら銀行会社の重役であった[7]。
西宮市会議員、日本船主協会、日伯協会各理事、八馬汽船社長、同会長、同相談役、武庫銀行、西宮銀行各頭取、日伯拓殖、大同信託、神戸土地興業、日本毛織、共同信託、東洋パルプ各取締役、西宮酒造、神戸海上火災保険、朝日海上火災保険、梅田映画劇場、阪神急行電鉄、東京宝塚劇場、山陽中央水電、南街映画劇場、神戸瓦斯、日本鉱産業、桐花興業各監査役、神戸信託相談役、多聞代表社員などを務めた[2][4][7][8][13]。
1928年4月、兵庫県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年4月6日から[14]1932年9月28日まで研究会に所属して貴族院議員を務めた[2]。1936年、兵庫県の7銀行の合併による神戸銀行設立に参加[15]。神戸銀行初代頭取に就任、1947年までその職を務めた[15]。戦後、公職追放を受けた[16]。
人物
八馬は一見貴公子然として何ら苦労知らずに想われるが、早くより父に死別れ実は苦労人で、幾度か苦難の起るたびにこれを突破して、自己の力によって常に自ら信ずる所の方向を誤らなかった[17]。家庭的には祖父母に仕えて柔順、母に仕えて至孝だった[17]。
若年で当時大繁忙の大船舶業者の責任者となる[18]。未曽有の海運ブームに対処して巧みに売船その他の処置を行い、殊に岡崎、板谷等と共に売船に努めて大船成金となる[18]。保有船の約4割を高値で売却し、巨富を手に入れ、大船成金の1人となった[18]。
国防献金其の他計40万円を寄付した[8]。宗教は真宗本派本願寺[10]。住所は兵庫県西宮市久保町[5][7][10]。
栄典
家族・親族
- 八馬家
家系について、『人事興信録 第10版 下』の八馬兼介を紹介する記事には「八馬家は先々代兼翁祖業精米商を継承し後海運業に転じて巨利を博したるに始まる」という記述がある[5]。
- 親戚
- 妹の夫
- 姉の夫・早瀬太郎三郎(大阪府多額納税者、桐花興業社長)
- 弟の義父
- 娘の夫・秋田博正(貴族院議員秋田三一の長男)
- 息子の義父
- 義父・増田増蔵(増田製粉所相談役、砂糖貿易商)
脚注
参考文献
- 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1915-1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 近藤保雄『偉人と英傑立志伝 解決下編』日本精神社、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
- 野村治一良『わが海運六十年』国際海運新聞社、1955年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。
- 『旅客船 機関誌(65)』日本旅客船協会、1965年。
- 森川英正『日本財閥経営史 地方財閥』日本経済新聞社、1985年。
- 総理府賞勲局編『紺綬褒章名鑑 賞勲局百年資料集 大正8年〜昭和16年』大蔵省印刷局、1986年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。
関連項目