『入法界品』(にゅうほっかいぼん)とは、大乗仏教経典『華厳経』の締めとなる大部の経典(品)で、サンスクリットの原題は『ガンダヴィユーハ・スートラ』(梵 : Gandavyūha Sūtra)。成立した経緯は明確ではないが、西暦200年から300年頃には完成していたようである[1]。
スダナ少年[2](スダナ・クマーラ、善財童子)が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、53人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれる。
一説には、東海道五十三次の53の数字の由来は、この『入法界品』にあるとされる[3]。
『入法界品』の成立は、華厳経典のなかでも最も早期であったと考えられている。また、華厳経全体としてのサンスクリット本は、現在においても見つかっていない一方で、『十地品』と、この『入法界品』はサンスクリットの完本が現存する[4]。
この経典でスダナ王子は、以下のような道のりを歩む。スダナ王子は、インド北方のコーサラ国から南下してきた文殊菩薩に福城[注釈 1]で見える。
善財よ、われまさに汝がために普照一切法界修多羅[注釈 2]を説くべし[5]。 — 文殊菩薩
王子は、文殊菩薩の勧めるところに従って悟りを求める旅に出る。インド南端のドゥヴァーラヴァティー[注釈 3][6]に至り、南海に望むと、スダナ王子はマハーデーヴァの勧めるところに従って、北インドのマガダ国にふたたび歩みを進める。スダナ王子はカピラヴァストゥ、須弥山を巡り、マガダ国のヴァルタナカにまで至ると、今度は進路を南に向け、南方のサムドラカッチャ、すなわち海岸地域にまで至る。ここでスダナ王子は弥勒菩薩を拝し、さらに数百もの城を旅し、文殊菩薩に見え、最後に普賢菩薩のもとで悟りを得る。
華厳宗を大成した唐の法蔵は、教えを乞う側である善財童子と、教えを説く側の善知識の関係を、以下のように説いている[7]。
善財と善友[8]というものは二つの相(すがた)がない。善友のほかに善財はなく、善財のほかに善友はない。善財と善友は不二である。—法蔵
仏教学者、中国仏教史研究家の鎌田茂雄は法蔵のこの発言について、「[善財童子と善知識の関係は]先生と生徒が不二の関係において法界(真理の世界)をともどもに学んでいくのである」ということを主張しているのだ、と説明している[7]。
なお、スダナ王子が面会する善知識のなかに、29番目の大天神(マハーデーヴァ)を初めとして天神・地神・夜神が11名登場する。中央僧伽大学校の仏教学教授の陳永裕は、「『華厳経』の神に対する再照明とその役割」のなかで、法蔵が記した華厳経典の注釈書、『華厳経探玄記』における解釈を紹介している。陳は、法蔵による、第31善知識である安住地神は(人格的な存在ではなく)「菩提に回向する」境遇を意味する概念[注釈 4]、という説明について触れたうえで、次のように述べている[9]。
法蔵の解釈では、地神を人格的な神として捉えるというよりは、教義的な解釈をしている。または、そうした役割をする神格という意味とも取れる。53人の善知識の職業がそれぞれ異なることは、すでに指摘されてきた。そうした職業のうち、天と地、そして夜が神格化され、これらが天神を除いてはすべて女性神である。天と地と夜と女性性は、善知識神衆の重要な概念で、すべての生命の生成を象徴する神衆の役割が示されていると言える。
仏教学者木村清孝は、『入法界品』を成立させた背景として、資産家層と女性、それに南インドのドラヴィダ人からの支持、あるいはこれらの人々にも訴求しうる内容にしようとした編纂者側の思惑があったと推測している[10]。