保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日[1] - 1945年(昭和20年)4月1日[1])は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎[1]。
子爵・保科正昭の長男として生まれる[1][2]。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した[3]。
東京高等学校を経て[4]、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業[4][5]。同年10月、高等試験外交科試験に合格し[4]、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した[4]。
以後、外交官補、外交事務官を歴任[5]。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた[5]。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当[5]。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた[5]。
1945年、竹内新平大東亜次官の随員として南方に出張し、その帰途4月1日、阿波丸事件に巻き込まれ殉職した[6]。没後、大東亜書記官に任じられた[5]。