伊達 村賢(だて むらやす)は、伊予吉田藩の第5代藩主。
延享2年(1745年)1月12日、第4代藩主・伊達村信の次男として生まれる(生年は寛保元年(1741年)とも)。宝暦5年(1755年)4月25日に世子に指名され、宝暦13年(1763年)9月8日に父が隠居したため、家督を継いだ。12月9日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。
しかし、相次ぐ火災や幕命による天明6年(1786年)の関東河川手伝い普請などで財政難がさらに深刻化し、領民に重税を強いて財政再建を図ろうとするが、天明7年(1787年)にはそのために強訴未遂事件が起こる有様で、これは村賢の死後に武左衛門一揆が起こる前兆にもなった。寛政元年(1789年)4月12日に能登守に遷任する。
寛政2年(1790年)2月9日、病により隠居し、直後の2月16日(2月10日とも)に死去した。享年46。家督は4月2日(4月8日とも)に次男の村芳が継いだ。
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