今治造船株式会社(いまばりぞうせん、英: Imabari Shipbuilding Co., LTD.)は、愛媛県今治市に本社を置く日本国内最大手の造船メーカーである。
愛媛県・香川県・広島県・山口県・大分県の瀬戸内海沿岸を中心にグループで10の造船所を保有している。1959年に檜垣正一が代表に就任以後は檜垣家が代表を務めるオーナー企業であり、非上場企業である。
1980年には三菱重工業や三井造船、石川島播磨重工業、日立造船(後2社の造船部門は現・ジャパンマリンユナイテッド)といった大手造船会社の3分の1以下の生産能力しかなく、業界では「中手」に区分されていた造船会社であった。1980年代に造船業界が不況に陥り、大手がドックを削減し新事業にシフトする中で経営不振の造船会社を傘下に収め、規模を拡大した。
造船竣工量において国内トップ[5]。2019年の国内シェアは約33.5%、世界シェアは約8.2%[6]。国土交通省によると、2016年には、HD現代重工業・大宇造船海洋・現代三湖重工業に次いで世界第4位[7]。2023年の国内シェアは約35.3%、世界シェア約5.8%であり[6]、世界第6位[2]。
丸亀事業本部には長さ600m、幅80m、深さ11.7mの日本最大のドックがある。なお、このドックには日本最大の1330トン吊りゴライアスクレーンが3基設置されている。本社のある愛媛県今治市には船主や舶用機器メーカー、金融機関などの「海事クラスター」と呼ばれる企業群が立地しており、毎週月曜日の朝には市内の金融機関の支店長らが今治造船の本社に集まり意見交換を行う「月曜会」と呼ばれる場が設けられるなど密接な繋がりがもたれている。
1901年に檜垣為治が檜垣造船所を創業したのが始まりである。1933年には為治の息子である檜垣正一らが「檜垣造船有限会社」を設立。1940年暮れには、檜垣造船、村上(実)造船、渡辺造船、村上造船、吉岡造船、黒川造船の6社が合併して「今治造船有限会社」が誕生した[10]。当時は木造船であっても厳しい資材統制があったため、業界での生き残りを賭けての会社併合であった[10]。その後、1943年に今治造船有限会社は今治船渠株式会社と合併し「今治造船株式会社」が誕生した。今治船渠は1940年、「国策に沿って今治にも設備の充実した造船所を作ろう」というねらいで、今治市内の無尽会社、鉄工会社、建築、電業会社、呉服屋など、今治でも上位にランクされる商工業者の出資によって生まれた造船所であった[11]。
戦後、今治造船は仕事が無く、従業員の多くが離散。1943年8月には檜垣一族も退社し、今治造船で現場総監督を務めていた檜垣正一は檜垣造船所を設立した。時代が木船から鋼船へ移行する中、今治造船は技術者の離散で鋼船建造の見通しが立たなくなり、1954年9月には休業に追いこまれた。檜垣正一は檜垣造船所を吸収合併し、今治造船の再建を図った。愛媛汽船社長の赤尾柳吉を社長に迎え、今治造船は1955年4月に再出発することとなった[12]。1959年には檜垣正一が社長に就任した。
船舶が大型化する中で、波止浜地区では湾の大きさや深さなどから大型船建造が困難であるため、1970年には香川県丸亀市に進出。1971年には三菱重工業と業務提携を締結。この提携は三菱重工業から設計技術供与を受ける見返りに、丸亀事業本部の売上の一部を「指導料」として支払う片務的な業務提携であった[13]。
1970年代後半と1980年代後半の2度の「造船不況」で造船業が不況に陥る中、幸陽船渠や岩城造船、西造船など経営不振に陥った中小の造船所を買収して傘下に収めて規模を拡大。2000年3月には約140億円を投じて愛媛県西条市に国内最大級の新造船用ドックを完成させた[14]。国内では日立造船有明工場以来、25年ぶりとなるドッグの新設であった[14]。
2000年には三菱重工業との提携を解消し、三菱重工業が持っていた今治造船の株式を買い戻した[15]。2012年には三菱重工業とコンテナ船で技術提携協定を締結するなど再び提携関係となり、2013年にはLNG船の設計・販売を行う合弁会社MI LNGカンパニーを設立した。
2015年には国内では今治造船西条工場以来、17年ぶりとなる新ドックを香川県丸亀市に建設する事を発表した[16]。約400億円を投じ、国内最大級の1330トンつりの門型クレーン3基を据え付けた[16]。新ドックは長さ600m、幅80mで超大型コンテナ船を同時に1.5隻建造できる規模を誇り、2017年9月に完成した[16]。
2019年11月29日、国内2位のジャパンマリンユナイテッドと資本業務提携することで合意したと発表した[17][18]。