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この項目では、峰山藩7代藩主について記述しています。子爵・貴族院議員の同名の人物については「京極高備 (子爵)」をご覧ください。 |
京極 高備(きょうごく たかまさ)は、江戸時代後期の大名。丹後国峰山藩7代藩主。官位は従五位下周防守。
経歴
宝暦7年(1757年)4月22日、6代藩主・京極高久の長男として江戸にて誕生。幼名は千之助。
天明8年(1788年)、父が若年寄になると藩政を取り仕切る立場になった。文化5年(1808年)、父の死去により家督を継ぎ、大番頭を務めた後の文化9年(1812年)2月から若年寄に任じられて幕政に参与した。藩政では検地や寺社統治に尽力している。文化8年(1811年)には京極高備の命によって、讃岐国の金刀比羅宮から分霊を勧請して金刀比羅神社が創建された[1][2]。金刀比羅神社の本殿の両脇には、文政7年(1824年)に高備と次男の高聡の名で奉献された一対の青銅燈籠がある[1]。
天保3年(1832年)11月20日、家督を五男・高倍に譲って隠居したが、その高倍とさらにその跡を継いだ七男の高鎮が僅かな間に自身に先立って次々と早世するなど、不幸な晩年の中で天保6年(1835年)5月3日に死去した。享年79。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺[3]。
系譜
脚注
京極氏 峰山藩7代藩主 (1808年 - 1832年) |
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