九鬼産業株式会社(くきさんぎょう)は、三重県四日市市(四日市港周辺の港地区)に本社を置き、製油業を中心とする、四日市九鬼家の同族企業。四日市九鬼家は、九鬼水軍で知られ志摩国の戦国大名であった九鬼家一族の子孫で、四日市に移住して江戸時代に商人となった。代々の当主は「九鬼紋十郎」または「九鬼紋七」を名乗り、これらの名前を襲名している。創業者は8代目九鬼紋七(九鬼紋十郎)で、九鬼家が代々経営者を務めている。
1886年(明治19年)に8代目九鬼紋七が、九鬼産業の前身となる製油業を開始した。地元有志らと「四日市工業会社」を創立し、英国より製油機械を購入し、油の製造を始めた[1]。九鬼家では代々九鬼紋七または九鬼紋十郎を襲名し、九鬼産業は本家の紋七家が担当した[2]。8代目九鬼紋七(1866年生まれ)の長男・徳三(1895年生まれ)が9代目九鬼紋七であり、その長男・覇郎(1924年生まれ)が10代目九鬼紋七、さらにその長男・祥夫(1955年生まれ、九鬼産業6代目社長)が11代目九鬼紋七を襲名した[3][2][4]。1888年に渋沢栄一らを株主に「四日市製油会社」が設立され、日本初の種油洋式製造を開始したが、1892年に解散し、九鬼紋七にその財産・事業が譲渡される[5]。資本金30万円で敷地面積1500坪、工場従業員約100名の会社となった[5]。
1951年(昭和26年)1月に「株式会社四日市製油所」を設立して、九鬼紋七 (九代目)(別名・九鬼寿園)が就任した。1962年(昭和37年)7月に、その長男の10代目九鬼紋七が、四日市製油所の経営をする社長に就任した。1968年(昭和43年)6月の現在の商号である九鬼産業に変更して、九鬼家グループの経営事業を統合した。戦後復興した九鬼産業はゴマ油生産の専業となった[2]。
九鬼産業の特色は1886年(明治19年)の創業以来の伝統として、「星印のゴマ油」として、業務用ごま油の生産や品質ではトップレベルであり、戦後になって食用ゴマ油・医薬品用ゴマ油として広く海外に販売する国際企業として国外に販路を伸ばして、積極経営により売り上げ高を伸ばしている。一番搾りの黒胡麻油の「九鬼純正黒胡麻油」が目玉商品である。現在の九鬼産業株式会社の代表取締役社長は、九鬼祥夫である。10代目九鬼紋七の息子で、1998年(平成10年)12月に九鬼産業の経営者(社長)に就任した。
創業は江戸時代の文化年間(化政文化期)で四日市市内でも創業が古い会社で業歴がある。九鬼産業は九鬼家の家業である。明治時代に満州国産の大豆を、ドイツより硫酸アンモニウムを輸入して全国販売をしてきた。戦後製造部門を分離して、株式会社の九鬼製肥所を設立して化成(有機入り)配合の生産及び飼料の販売も兼業して、1955年(昭和30年)頃から建材事業にも進出をした。
関ヶ原の戦いの際、九鬼一族は九鬼嘉隆が西軍に、息子の九鬼守隆が東軍について家中は二分したが、嘉隆と共に西軍に加担し、敗戦後に逃れた嘉隆の末男・守隆の末弟が、四日市九鬼家の始祖である。この九鬼家は江戸時代初期に武士身分を捨てて商人となり、四日市を基盤に九鬼水軍時代からの海運能力を活かして、赤穂の塩を江戸に販売するなど回船業と商業を営んだ。
幕末から明治の初め、四日市九鬼家は四日市港地区と塩浜地区に菜種畑が広がり、水が綺麗である好条件に目を付け、製油業を始めた。1886年(明治19年)に8代目九鬼紋七が「油を搾る製油業は九鬼家が最高品質の油をより良い技術で」ということから、日本で初めて圧搾法を用いた四日市製油所で胡麻油の製造を開始した。これが九鬼産業に発展し、紋七の長男の九鬼紋十郎と婿養子の九鬼喜久男が後継の九鬼産業グループの経営者となった。