中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 2004年)は、日本の映画監督、脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。
人物・来歴
1909年(明治41年)9月5日、大阪府に生まれる[1]。
1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業[1]、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した[1]。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した[1]。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした[2]。
その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる[1]。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした[1]。電通映画社で亀井文夫の脚本を得て、数本監督する[3]。
第二次世界大戦後は、インディペンデント系のプロダクションで製作された『ひょっとこ飛脚』で劇映画の監督としてデビューした[2]。同作は松竹が配給し、1949年(昭和24年)に公開された[2]。
1955年(昭和30年)、宝塚映画製作、東宝配給作品の脚本を数本書く[2]。
1958年(昭和33年)、日米映画が日本テレビと共同で製作した48分の中篇映画『群衆の中の殺人』を監督し、同年6月29日に新東宝が配給して劇場公開された[2]が、同作は、同年9月13日に日本テレビでテレビ映画として放映されている[4]。原初的なメディアミックスの例となった。同年以降、テレビドラマに進出し、1965年(昭和40年)まで多くのテレビドラマを手がけた。
1960年(昭和35年)10月12日、フジテレビのシリーズ『東京タワーは知っている』の一篇『銀座の赤ん坊』の撮影中に、「カミナリ族」を演じるスタントに一般の「カミナリ族」が競り合い、4人の負傷者を出す事故がおきる[5][リンク切れ][出典無効]。同作は、翌1961年(昭和36年)1月13日に放映された[4]。
1962年(昭和37年)初頭、第一プロダクション製作、大宝配給の劇場用映画『波止場で悪魔が笑うとき』を監督する[6]。同作は、『キネマ旬報』誌の1962年3月下旬号の記述[6][7]によって、中川信夫作品とされがちであったが、2009年(平成21年)に16ミリプリントとポスター、初稿の印刷台本が発見され、「中川順夫作品」であることが明らかになった[6]。
1968年(昭和43年)からはピンク映画にも進出し、自らの製作会社中川プロダクションで数本製作した[2]。伊世 亜夫の別名で監督した作品もある。
フィルモグラフィ
映画
- 『オモチャの科学』 : 日本映画社、1940年
- 『勝利の基礎』 : 1941年 - 監督・脚本
- 『この一冬』 : 電通映画社、1943年 - 監督
- 『じゃが薯の芽』 : 電通映画社、1944年 - 監督
- 『制空』 : 電通映画社、1945年 - 監督
- 『ひょっとこ飛脚』 : 桜映画・木村映画 / 松竹、1949年 - 監督・脚本
テレビドラマ
註
外部リンク