三宅 定雄(みやけ さだお、1938年5月27日[1] - 2021年8月1日[注 1])は、元・毎日放送アナウンサー。
東京都の出身[2]で、早稲田実業学校高等部から立教大学社会学部へ進学[注 2]。高校生時代に所属していた硬式野球部では、控え投手ながら、醍醐猛夫や徳武定之、さらに2年後輩の王貞治ともチームメートだった。また、大学生時代は、ラグビー部に所属していた。
大学卒業後の1961年に、アナウンサーとして毎日放送(MBS)へ入社[注 3]。入社後は主に、プロ野球(NPB)、選抜高校野球、全国高校ラグビー大会などのスポーツ中継で実況やリポートを担当していた。
NPBの公式戦中継では、MBSの放送対象地域(関西地方)から阪神タイガースと南海ホークスが進出した1964年の日本シリーズ(いわゆる「御堂筋シリーズ」)で、入社4年目ながら10月6日に大阪球場(南海の本拠地)で開催された第5戦でラジオ中継(出身地の関東地方ではニッポン放送で同時ネット)の実況を任された。同じ時期に開催されていた1964年東京オリンピックに先輩のスポーツアナウンサー(小池清や井上光央など)が競技中継の実況要員として派遣されたことに伴う抜擢であったが、その後も、昭和時代の高校野球やNPBの歴史を彩った試合を何度も実況(詳細後述)。学生時代にラジオ番組の演出家を志していたことを背景に、「選手に優しい姿勢を常に示しながらも、時に熱を帯びたり、時に脱線したりする」という名調子で広く知れ渡っていた[4]。
1980年代に入ってからは、阪神戦のラジオ中継における板東英二(当時はMBSの野球解説者)との喧嘩も辞さない掛け合いが、『ニッポン放送ショウアップナイター』(MBSでも一部のカードで中継を制作・同時ネット)における深澤弘[注 4](当時はニッポン放送のスポーツアナウンサー)・江本孟紀(同局の野球解説者)コンビと並び称されていた[5]。2歳年上の深澤には敬愛の情を示していたとされているが、かねてから飲食店の経営を志していたことが高じて、1988年にMBSを退社した。当時の部下(スポーツアナウンサー)であった伊東正治によれば「3月に入ってから、三宅から退社する旨をいきなり聞かされた」とのことで、BBC(英国放送協会)日本語放送サービスへの出向を控えていたにもかかわらず、同月下旬に開幕した第60回選抜高等学校野球大会の中継で三宅が担当する予定だったカード(3試合)の実況を急遽任されたという。結局、三宅は3月31日付でMBSを退社したものの、実際には4月5日の選抜高等学校野球大会決勝・宇和島東対東邦戦テレビ中継の実況で同局アナウンサーとしての活動を終えた。
MBSからの退社後は実際に飲食店を経営していたが、後に店じまいを余儀なくされてからは、職を転々としていたという。その間には、『東海ラジオ ガッツナイター』で実況アナウンサーが不足していた1990年代の前半に、東海ラジオとの本数契約でNPB公式戦の実況へ一時的に復帰[注 5]。また、住之江競艇で場内実況やイベントの司会を務めることがあった。
2021年8月1日に逝去。83歳没[4]。古巣に当たるMBSラジオ(三宅が所属していた時期にはテレビ・ラジオ兼営局だったMBSから同年4月1日付でラジオ放送事業・放送免許を継承したラジオ単営局)では、8月25日の『子守康範 朝からてんコモリ!』(三宅のMBS時代の部下である子守康範がフリーアナウンサーとして当時パーソナリティを務めていた生ワイド番組)で訃報を伝えた。さらに、11月29日の『MBSベースボールパーク番外編』で、三宅の追悼特集を生放送。三宅と縁の深いMBSの関係者から、スポーツアナウンサーとしての「弟子」に当たる伊東・美藤啓文・赤木誠や、解説者として阪神戦の中継で三宅とたびたびコンビを組んでいた安藤統男・太田幸司が三宅の功績や人柄を振り返った[4]。
いずれも毎日放送(当時)制作のラジオ中継。前述した『MBSベースボールパーク番外編』での追悼特集には、以下の実況のダイジェスト音源が使われた。