ローザ・ルクセンブルク (ドイツ語 : Rosa Luxemburg , ポーランド語 :Róża Luksemburg , ルジャ・ルクセンブルク、1871年 3月5日 - 1919年 1月15日 )は、ポーランド に生まれドイツ で活動したマルクス主義 の政治理論家、哲学者、革命家。ミハイル・トゥガン=バラノフスキー とルドルフ・ヒルファーディング の不比例説に対してカール・カウツキー とともに消費制限説で対峙し、ミハウ・カレツキ に影響を与えた。
彼女はポーランド王国社会民主党(SDKP) およびポーランド王国・リトアニア社会民主党 (SDKPiL) の理論家であり、のちにドイツ社会民主党 、ドイツ独立社会民主党 (ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne (赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団 を母体としてドイツ共産党 を創設、1919年 1月にはベルリンでドイツ革命 に続いて1月蜂起 を指導するが、帝国軍の残党やフライコール (義勇軍)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者 や社会主義者 のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒト とともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義 とも呼ばれる。
生涯
ポーランド時代
ローザ・ルクセンブルクは、1870年 もしくは1871年 3月5日 、ロシア帝国 の事実上の属国 であったポーランド立憲王国 の都市、ルブリン 近郊のザモシチ で生まれた。ユダヤ人 の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世と、その妻のリーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供であった[ 1] 。出生時の名前はロザリアである。生年について2通りの説があるのは、チューリッヒ大学 へ提出した履歴書には1871年 生まれと記載されているのに対し、1887年 に発行された高校卒業証書には彼女が17歳である(すなわち1870年 生まれである)と記されていることによる[ 2] 。自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代にはゲーテ やシラー に傾倒して多大な影響を受けた。
1873年 、一家はワルシャワ へ転居した[ 2] 。ローザはワルシャワ第2女子高校へ通うこととなり、1887年 には優秀な成績で高校を卒業した[ 3] 。前年の1886年 以降、彼女はポーランドの左翼政党である「プロレタリアート」のメンバーとなっている。「プロレタリアート」は1882年に設立されて、ゼネラル・ストライキ を組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑され、党自体はすでに解散に追い込まれていた[ 4] 。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため、1889年 にはローザにも拘禁の危機が迫り、スイスのチューリッヒ に亡命[ 5] 。チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学・歴史学・政治学・経済学・数学を学んだ。同じ時期には、アナトリー・ルナチャルスキー やレオ・ヨギヘス といった社会主義者たちも、この大学に在籍していた。「Staatswissenschaft(政治体制 の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。
1890年 、社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、ドイツ社会民主党 (以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。しかし社会主義者の議員たちは、自身が議会に所属していることもあり、議会をも打倒する革命というのはいささか矛盾を孕んでいて、革命に積極的でなかった。
1895年。ローザ・ルクセンブルク
それに対してローザは、 革命的マルクス主義者として、1893年 にはポーランド社会党 の国家主義 的な方針に反対して、レオ・ヨギヘスやユリアン・マルフレフスキ (別名ユリウス・カルスキ)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の大義」)紙を発刊[ 6] 。ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである。」というフリードリヒ・エンゲルス のテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同して、ウラジーミル・レーニン らの唱える社会主義の下での民族自決権 を否定したためである。このことにより、のちにレーニンとのあいだに対立が生じることとなる。
同1893年 、ヨギヘスとともに、ポーランド王国社会民主党(以下SDKP)を創設[ 7] 。SDKPは1899年 にリトアニア の社会民主主義者らの組織と合同してポーランド王国・リトアニア社会民主党 (以下SDKPiL)となった[ 8] (その後1918年に結成されるポーランド共産主義労働者党の前身組織の一つとなる)。SDKPはワルシャワで非合法に第1回党大会を開催する。成年期の大半はドイツで過ごしているものの、ローザはポーランドの社会民主主義者を代表する理論家であり続け、中心的なオルガナイザーであるヨギヘスとともに党を指導した。なおヨギヘスは、のちにローザらが結成するスパルタクス団 の主要メンバーが次々と逮捕されて活動継続が困難になったときにも、機関紙『スパルタクス書簡』の編集や配布・メンバー間の連絡などを請け負った。
1896年 に第二インターナショナル のロンドン 大会に出席するなど、社会主義者として活動すると同時に大学での研究にも精力的に取り組み、1897年 には学位論文「ポーランドにおける経済の発展」により最優秀の評価を得て法学博士号を取得する[ 9] 。
ドイツへ移住
1910年。クララ・ツェトキン と歩くローザ (右)
1898年 、ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し[ 10] 、ベルリン へ転居[ 11] 。ドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党 。以下SPD)に入党し、同党左派での活動を開始。それ以前から修正主義 を唱えていた主流派のエドゥアルト・ベルンシュタイン が1899年 に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「社会改良 か革命か」と題したパンフレットで激しく反論するし[ 12] 。この一件により、SPD随一の雄弁家・理論家として党内外の国際社会主義運動において広く知られるようになる[ 13] 。
このころには戦争の気配がいよいよ濃厚となり、ローザはSPDの順応主義的な議会路線への批判を強めた。ローザは、資本と労働のあいだの決定的な差異を埋めるには、プロレタリアート が権力を獲得し生産方法に関わるすべてに革命的な変革が起こらない限り不可能であると主張して修正主義者たちの離党さえ望み(さすがにこれは叶わなかったが)、議会制民主主義を重視する多数派や党指導部のカウツキーらとの対立に至る。ただし、カウツキーも(議会での議席数増大がその狙いである以上)党綱領からマルクス主義を捨て去ることまではしなかった。
1900年 以降、ローザは『ライプツィヒ人民新聞』やSDKPiLの機関紙『赤旗』をはじめとするヨーロッパ 中のさまざまな新聞記事で目下の経済・社会問題に関する意見を表明し、1904年 から1906年 のあいだには政治活動の咎によって3度も投獄されるが、なおも彼女の活動は精力的に続く。特に1905年 のロシア第一革命 に対しては、その歴史的意義と支持の意を強く表明、ゼネストの重要性を確信し、党の戦術として採択するよう主張するようになる。
ウラジーミル・レーニン
1907年 ロンドンで開催されたロシア社会民主労働党 の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、レーニン と対面する。そのすぐ後に開催された第二インターナショナル のシュトゥットガルト 大会で採択された戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めるもの)は、ローザとレーニンによって起草されたものである[ 14] 。1906年 にベルリンで開設されたSPD党教育センターで、マルクス主義経済学の講師を勤めるようになったのも1907年のことであり、ローザの主著の一つである『経済学入門』は、ここでの講義をまとめたものである[ 15] 。また、このときの受講者の一人には、のちのSPD議長にして、ヴァイマル共和国 初代大統領、ドイツ革命 の際には臨時政府元首としてローザを弾圧することになる、フリードリヒ・エーベルト がいる。
これ以前から戦争の危機が近づいているとの確信を深めていたローザは、ドイツの軍国主義 と帝国主義 に対する攻撃の手を強めていった。1910年 には、党の採るべき革命的戦術として労働者に団結を促し、ゼネスト を組織するよう、SPDの方向転換を要請する論文を執筆。しかしこれが党指導部に受け入れられず、機関紙『新時代』への掲載を拒否されたため、カウツキーらとの決裂は避けられないものとなった[ 16] 。
1912年 2月には、SPD代表として、パリ をはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者ジャン・ジョレス とともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。1914年 にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達し、戦争を避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザはフランクフルト ほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否 や命令への不服従を訴えかける。この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ、懲役1年の有罪判決を受ける[ 17] 。拘禁は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党において、ナショナリズム が階級意識 よりも濃厚になっていることを認めざるを得ず、落胆する[ 18] 。
1913年 には、古典派経済学 の分析を通じて、資本蓄積 が国際負債や帝国主義 を生むとを論じた主著、『資本蓄積論 (英語版 ) 』を出版する。
1914年 7月28日 、オーストリア=ハンガリー帝国 がセルビア王国 に宣戦布告 して第一次世界大戦 が勃発。8月3日 にはドイツ帝国 がロシア帝国 に宣戦布告した。翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。SPDの議員も全員がこれを支持し[ 19] 「城内平和 」の名の下、戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され、求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調。こうして第二インターナショナル の命脈は尽きた。これを聞いたローザは衝撃を受けた[ 20] 。
スパルタクス団結成
カール・リープクネヒト
ローザを筆頭としカール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン 、フランツ・メーリング らを中心とした党内左派は1914年 8月5日 に「グルッペ・インターナツィオナーレ」 (Gruppe Internationale) を結成する。翌1915年 4月には機関紙『インターナツィオナーレ』を刊行し[ 21] 、論文『社会民主主義の危機』において破綻したインターナショナルの再建を訴え(ただし即座に発禁処分を受ける[ 22] )、7月には党指導部宛に抗議書簡を投げかける。「グルッペ・インターナツィオナーレ」は1916年 1月1日 にリープクネヒト宅で全国協議会を開き、当時拘禁されていたローザが獄中で起草した指針を採択し、『スパルタクス書簡』と題した非合法の冊子を発行することが決定され、メンバー共有のペンネームとして「スパルタクス 」(共和政ローマ で奴隷 たちによる反乱を率いたトラキア 出身の奴隷剣闘士 の名)が用いられた。これにより「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「スパルタクス団 」として知られるようになる。ローザ自身は共和政ローマの創設者で初代執政官と伝えられるルキウス・ユニウス・ブルートゥス にちなむペンネーム「ユニウス」を用いた。
スパルタクス団はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 および政府と妥協して戦争支持に回ったSPDの方針を拒否し、出獄したローザは再度ゼネストを要求して5月1日 にはメーデー のデモを煽動するなど闘争を展開した。その結果、7月10日 には再逮捕されて[ 23] リープクネヒトとともに禁固2年半を宣告される。はじめはポーゼン 、次いでブレスラウ の刑務所へ収容された[ 24] 。この拘禁期間にも彼女は「ユニウス」の名でいくつもの論文を執筆し、ヨギヘスほか仲間たちの手で地下出版された。これらの論文は、ドイツ労働者への武装蜂起の呼びかけや勃発直後のロシア革命 に関する見解(具体的にはレーニン批判)をその内容とする。1917年 にアメリカ合衆国 が参戦したころ、スパルタクス団はやはり戦争反対の立場からSPDを脱退したカウツキーらによって結成された独立社会民主党 (USPD)と合流する[ 25] 。
ローザ・ルクセンブルクのロシア革命・レーニン批判
ロシア革命以前からローザはレーニンの前衛党 論に反対していた(1904年 にレーニンの発表した『一歩前進二歩後退』への批判に始まる。議会主義への態度をめぐって対立していたカウツキーともこの点においては一致していた)。批判の第一は革命後の独裁(プロレタリア独裁 )のあり方・解釈についてである。プロレタリア独裁とは階級の独裁であって一党一派の独裁ではないと主張したローザは、革命後における民主的自由を擁護する立場を取った。批判の第二は、運動組織原則(レーニンの前衛党論)に対してであった。革命は自然発生的でなければならないと考えたのも、前衛党論批判の理由の一つであった。
獄中にいた1917年 、レーニンを指導者とするボリシェヴィキ によってソビエト 政権が樹立された十月革命 の報に接するや、レーニンの前衛党論を改めて論難し、実際の十月革命が自然発生的でないことや革命後の民主的自由が危ういことなどを指摘、ボリシェヴィキが新たな独裁を生むだろうと予言し獄中から警句を発した。
具体的には、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散を批判し、「搾取者」(すなわち革命政府への反対者)にも選挙権を与えるべきであること、出版・結社 ・集会・言論の自由 を保障するべきであることを批判した。ローザの有名な言葉「Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden.(自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である。)」はこうした文脈のもとに書かれたものである。これらの批判は死後、弟子によって出版されたが、ローザ本人の確認を経ていないことから、ローザの真意が記されているわけではないとソ連は批判していた。
ドイツ革命と共産党の結成(1918年11月-12月)
1918年 11月4日 に起きたキール 軍港における水兵の反乱およびロシア革命時のソビエトに倣った「労働者・兵士協議会(レーテ )」の結成が引き金となってドイツ革命 が勃発し、同9日に皇帝が廃位されると、USPDは勢力を拡大したSPDとともに共和政の新政府を樹立する(首班はエーベルト、革命後のヴァイマル共和国 である)。
1918年11月9日にブレスラウ の刑務所から釈放されたローザは[ 26] 、すでに釈放されていたリープクネヒトとともにスパルタクス団を再編し、11月18日には機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊した[ 27] 。同紙で書かれた最初の論文では、すべての政治犯 に対する特赦と死刑制度の廃止 を要求した。
一方、USPDら急進派を快く思わないエーベルトは軍部と手を組むことを選んでいた。この協定により、革命で崩壊しかけた国軍の残党や国家主義者、右翼らによる反革命義勇軍 (フライコール)が創設され、やがて革命派に対する武力鎮圧が始まる。12月23日に左派の人民海兵団 (ドイツ語版 ) が起こした反乱の鎮圧をめぐり、USPDはこれに強く抗議して連立政府から離脱する[ 28] 。
一方、1918年 末にスパルタクス団はUSPDから再度分離し、その他の社会主義者や共産主義者のグループと連合。12月30日 [ 29] から翌1919年 1月1日 にかけて開かれた創設大会をもって、ついにローザとリープクネヒトを指導者とするドイツ共産党 (KPD)が誕生する。ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会には反対していたものの、1月19日に予定されている議会選挙には参加を主張した。しかしこの主張は党内の支持を得られず、ドイツ共産党の選挙不参加が党大会において議決された[ 30] 。
1月蜂起と虐殺(1919年1月)
東ベルリン にあるローザ・ルクセンブルク像
この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。1月4日にベルリン の警察長官エミール・アイヒホルン (英語版 ) が解任されたことをきっかけに、翌5日には大規模なデモ が発生し、ベルリン各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠された。この動きをリープクネヒトや独立社会民主党のゲオルク・レーデブール (英語版 ) らが支持したため、この蜂起は「スパルタクス団蜂起 」と一般に呼ばれるようになる。ただしこの蜂起は共産党(スパルタクス団)が計画したものではまったくなく、ルクセンブルクをはじめ他の共産党幹部はこの起こった蜂起に当初激しく反対したとされる[ 31] 。ただし、蜂起に加担することが決定された後は革命の完遂を呼びかけるようになった[ 32] 。翌6日にはゼネスト が始まったものの、蜂起側がそれ以上の行動に移ることはなく、その間に体勢を立て直したエーベルトのSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧を本格化した[ 33] 。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルタクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体されてゆく。
ローザとリープクネヒトは1月15日 にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床 で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた[ 34] 。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。その後、遺体は国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチス)政権により所在不明となってしまった。2009年 5月、ベルリン のシャリテ病院で身体的特徴がローザのものと一致する首の無い遺体が発見され、現在調査中[ 35] だと報じられた(ナチスによる墓荒らしもこの時に判明した)。
現在
ドイツ連邦共和国 の情報機関 である連邦憲法擁護庁 は、ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトの偶像化はドイツの極左 過激主義の重要な伝統であるとしている[ 36] 。ルクセンブルクとリープクネヒトは、東ドイツ の共産主義政権によって共産主義の殉教者として偶像化され、ドイツ統一 後もドイツ社会主義統一党 の後継党である左翼党 によって偶像化され続けている[ 36] 。
東ドイツ時代には、社会主義統一党政権によって東ベルリン や東ドイツの各所にルクセンブルクにちなんだ地名がつけられた。ベルリンにあるローザ・ルクセンブルク・プラッツや、そこにあるベルリン地下鉄2号線 のローザ・ルクセンブルク・プラッツ駅などはその一例である[ 37] 。
ルクセンブルクの墓は、ベルリンのフリードリヒスフェルデ中央墓地 (英語版 ) にある。この墓地は社会主義者が多く埋葬されており、ルクセンブルクの死後しばらくしてルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ による革命記念碑 がルクセンブルクとリープクネヒトを記念して建てられたものの、1935年にナチス政権によって破壊された[ 38] 。
著書(日本語訳)
『経済学入門』佐野文夫 訳. 叢文閣, 1926 岩波文庫 、1933
「経済学入門」高山洋吉 訳. 三笠文庫 1953
『経済学入門』岡崎次郎 , 時永淑 訳. 岩波文庫 1978
『経済学入門』保住敏彦 ,久間清俊, 桂木健次,梅澤直樹 , 柴田周二, 二階堂達郎訳, 『ローザ・ルクセンブルク選集』編集委員会編. 御茶の水書房 , 2018
『改良主義論』緒方潔 , 沼田光一郎 等訳. 希望閣, 1926
『資本蓄積再論 亜流はマルクス説から何を作り出したか』宗道太 訳. 同人社書店, 1926
『資本蓄積再論 亜流はマルクスの理論から何を作ったか』長谷部文雄 訳. 岩波文庫 1935
『資本蓄積論』益田豊彦 , 高山洋吉 共訳. 同人社, 1927
『資本蓄積論』長谷部文雄訳. 岩波文庫 1934 青木文庫、1952-55 績文堂出版, 2006
『資本蓄積論』高山洋吉訳. 三笠文庫 1952
『資本蓄積論』太田哲男 訳. 同時代社, 1997
『資本蓄積論 帝国主義の経済的説明への一つの寄与』全3巻 小林勝 訳, 『ローザ・ルクセンブルク選集』編集委員会編. 御茶の水書房, 2011-13
『大衆罷業、党及び組合』松本悟朗 訳. 白揚社 , 1927
『ローザ政治論集 彼女の過失とその訂正』松山止戈訳. 叢文閣, 1927
『カウツキー夫妻への手紙』浅野正一 訳. 改造文庫 1934
『獄中からの手紙』秋元寿恵夫 訳. 世界文学社, 1952 岩波文庫、1982
『獄中からの手紙 ゾフィー・リープクネヒトへ』 (大人の本棚) 大島かおり 編訳. みすず書房 , 2011
『ローザ・ルクセンブルクの手紙 ゾフィー・リープクネヒトへ』北郷隆五 訳, 大内兵衛 解説. 青木文庫 1952
『ローザ・ルクセンブルクの手紙 カールおよびルイーゼ・カウツキー宛 1896-1918 改版』ルイーゼ・カウツキー編, 川口浩 , 松井圭子 訳. 岩波文庫 1963
『ローザの手紙』孝橋正一 訳. 婦人民主クラブ, 1964
『ポーランドの産業的発展』肥前栄一 訳. 未来社 , 1970
『マルクス主義と民族問題』訳者:丸山敬一 . 福村出版 , 1974
『ヨギヘスへの手紙』全4巻 伊藤成彦 ,米川和夫 , 阪東宏 訳. 河出書房新社 , 1976-77
『獄中のローザ マティールデ・ヤーコプへの手紙』シャルロッテ・ベラート編, 渡辺文太郎 訳. 新泉社, 1977
『民族問題と自治』加藤一夫 ,川名隆史 訳. 論創社 , 1984
『ロシア革命論』伊藤成彦 , 丸山敬一訳. 論創社, 1985
『友への手紙』伊藤成彦訳. 論創社, 1991
『ポーランドの産業的発展』バーバラ・スキルムント, 小林勝訳, 『ローザ・ルクセンブルク選集』編集委員会 編. 御茶の水書房, 2011
『ローザ・ルクセンブルク全集』第1巻 小林勝編集責任. 御茶の水書房, 2012
『ローザ・ルクセンブルク選集』全4巻 現代思潮新社 , 2013
1 1893-1904 野村修 ,田窪清秀 , 高原宏平 ,喜安朗 , 片岡啓治 訳
2 1905-1911 高原宏平, 田窪清秀, 野村修,河野信子 , 谷川雁 訳
3 1911-1916 高原宏平, 野村修, 田窪清秀, 片岡啓治訳
4 1916-1919 田窪清秀, 高原宏平, 野村修, 救仁郷繁 ,清水幾太郎 訳
関連作品
脚注
^ 伊藤 1998 , p. 19
^ a b 伊藤 1998 , p. 247
^ 伊藤 1998 , p. 21
^ フレーリヒ 1991 , p. 22-23
^ フレーリヒ 1991 , p. 12-15
^ 伊藤 1998 , p. 22
^ フレーリヒ 1991 , p. 45
^ フレーリヒ 1991 , p. 47
^ 伊藤 1998 , p. 23
^ フレーリヒ 1991 , p. 49
^ 伊藤 1998 , p. 25
^ フレーリヒ 1991 , p. 63
^ 伊藤 1998 , p. 28
^ フレーリヒ 1991 , p. 200
^ フレーリヒ 1991 , p. 175-179
^ フレーリヒ 1991 , p. 201-204
^ フレーリヒ 1991 , p. 209-210
^ フレーリヒ 1991 , p. 241-242
^ フレーリヒ 1991 , p. 243
^ フレーリヒ 1991 , p. 244
^ フレーリヒ 1991 , p. 249
^ フレーリヒ 1991 , p. 254
^ フレーリヒ 1991 , p. 269
^ フレーリヒ 1991 , p. 271
^ フレーリヒ 1991 , p. 333
^ フレーリヒ 1991 , p. 310
^ フレーリヒ 1991 , p. 315
^ 林 1963 , p. 32-33
^ 林 1963 , p. 36
^ 林 1963 , p. 334-335
^ 林 1963 , p. 39
^ フレーリヒ 1991 , p. 346-347
^ 林 1963 , p. 38
^ フレーリヒ 1991 , p. 358
^ “Mysterious Berlin corpse probably Rosa Luxemburg” . Reuters . (2009年5月30日). https://www.reuters.com/article/idUSLT1020262 2019年2月17日 閲覧。
^ a b Gedenken an Rosa Luxemburg und Karl Liebknecht – ein Traditionselement des deutschen Linksextremismus . BfV-Themenreihe. Cologne: 連邦憲法擁護庁 . (2008). オリジナル の13 December 2017時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171213010945/https://www.verfassungsschutz.de/embed/broschuere-2008-04-luxemburg-liebknecht.pdf
^ https://observer.com/2011/03/the-mystery-of-rosa-luxemburgs-corpse/ 「The Mystery of Rosa Luxemburg’s Corpse」OBSERVER 03/01/11 2021年4月21日閲覧
^ https://www.visitberlin.de/en/central-cemetery-friedrichsfelde 「Central Cemetery Friedrichsfelde」visitBerlin.de 2021年4月21日閲覧
参考文献
関連項目
外部リンク
概念 基礎 種類 国際組織 人物 出来事 関連項目
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