ランフランコ・"フランキー"・デットーリ (Lanfranco "Frankie" Dettori、1970年12月15日 - )は、イタリア・ミラノ生まれの騎手。MBE。現役の騎手のなかで世界トップクラスの騎乗技術をもつといわれている。
1994年から18年にわたりゴドルフィンの専属騎手を務め、アラブ首長国連邦(UAE)とイギリスを主戦場としていた。その後はジョン・ゴスデン厩舎の主戦騎手として活躍した。
概要
ラムタラ、スウェイン、デイラミ、ドバイミレニアム、エレクトロキューショニスト、ファンタスティックライトなどの名馬とコンビを組み、これまでに凱旋門賞6勝をはじめとする数々の大レースを制覇。イギリスダービーも2007年に制覇した。世界各国でG1レースに勝利した回数は220回、日本のGIレースを4勝している。
1996年9月28日、アスコット競馬場で、1日全7レースの完全制覇を史上初めて達成[1]。
父のジャンフランコ・デットーリもボルコンスキー、ウォローで英2000ギニーを連覇し、日本にも第2回と第3回のジャパンカップに2度来日した名騎手だった。また、母親はサーカス団にいたことがあり、馬の曲乗りを得意にしていた。このことに関して本人は「身体が柔らかいのは母親譲りだと思う」と発言している。
大レースに勝利した際に、馬の背で立ち上がりそこから飛び降りる通称「デットーリジャンプ(フライングディスマウント)」が有名で、日本でもデットーリと非常に仲のよい横山典弘が彼の真似をしている。
サイドビジネスとして、「フランキー・デットーリ・ピザ」や「フランキー・デットーリ・イタリアン・レストラン」を経営しており、ロンドン、上海に店舗を展開している。
2012年10月に18年にわたって続いたゴドルフィンの主戦騎手を終了すると[2]、その後はジョン・ゴスデン調教師とのコンビで大舞台を湧かせており、英ダービーなどを制したゴールデンホーンをはじめ、凱旋門賞連覇など圧倒的な実力を発揮するエネイブル、チャンピオンステークス連覇のクラックスマン、ステイヤーズミリオン完全制覇を達成したストラディバリウス、ダーレミの子供であるラーティダーやトゥーダーンホットなどで数多くのレースを制している。
2022年4月、イギリス競馬の殿堂入りを果たした[3]。
2022年6月、騎乗ぶりをめぐる軋轢から、長年パートナーを組んでいたジョン・ゴスデン調教師との関係を凍結することを発表した[4]。
2022年12月17日、イギリスの競馬メディア「itv racing」のインタビューにおいて、「来年2023年が、ジョッキーとしてのプロ最終年になる」と語り[5]、翌2023年を最後に騎手を引退することを表明した[6]。しかし2023年シーズンに入り、当初の11月のアメリカ・ブリーダーズカップを最後に引退する予定を延期し、11月のメルボルンカップなどオーストラリアで騎乗を続けることを発表した[7]。さらに同年10月12日、前述の引退表明を撤回して現役を続行し、2024年はアメリカ・カリフォルニア州を拠点として騎乗を続けるプランを発表した[8]。
2024年3月3日、サンタアニタハンデキャップをニューゲートで制し、アメリカへ移籍して初となるG1勝利を果たした[9]。
日本での活躍
1991年11月24日のジャパンカップでドラムタップス(英語版)に騎乗するために初来日を果たす(JRA初騎乗は前日23日のインターナショナルジョッキーズ(1)で8着)。
1992年、1993年の中山競馬場で行われたヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップに招聘され、2年連続の優勝(1992年のファイナルカップでJRA初勝利)。特に1993年は全4戦中3戦を勝利している。
1996年のジャパンカップをシングスピールで制し、JRA・GI競走初制覇を果たす。同年および1998年のワールドスーパージョッキーズシリーズに参戦(6位、13位)。
2002年には中山競馬場に振り替えられたジャパンカップをファルブラヴで勝利(ジャパンカップ2勝目)。しかも前日にはイーグルカフェに騎乗しジャパンカップダートに勝利。同馬にNHKマイルカップ以来のGI勝ちをもたらした。2日連続でテクニカルな中山コースでG1勝利を挙げる辣腕ぶりに、吉田照哉は「デットーリが乗ると5馬身違う」と感嘆した[10]。
2005年にジャパンカップをアルカセットで勝ち、ジャパンカップ3勝目でこの時点で単独最多勝利騎手となった(2023年現在では武豊・クリストフ・ルメールが4勝を挙げているため、歴代3位タイとなった)。しかもジャパンカップの3勝は全てがハナ差でのもので、接戦をものにしたその手腕を如実に示している。小島太元調教師の実子の小島良太調教助手とは初来日時から親交があり[11]、来日時にはよく騎乗依頼を受けている。
近年のジャパンカップでは日本馬が圧倒的に有利のため、有力外国馬でも優勝するどころか掲示板にすら載らないことが多い。そんななか、21世紀に入って外国調教馬を2度も優勝に導いており、その2度ともが僅差での勝利で、なおかつ東京、中山とそれぞれ違う種類でのコースでの勝利であった。
2011年には、東京優駿(日本ダービー)でH.H.シェイク・モハメド殿下の所有馬であるデボネアに騎乗するため、5月28・29日のみで短期免許を取得[12]。身元引受調教師は中竹和也、身元引受馬主は猪熊広次[13]となっていた。その後しばらく来日から遠のいていたが、2019年11月23日から12月2日まで短期騎手免許を取得した。この際の身元引受調教師は藤原英昭、身元引受馬主は吉田照哉だった[14]。この際はジャパンカップやチャンピオンズカップにも騎乗したが海外調教馬の騎乗はなく[15]、2週間(競馬開催日4日)の短期間ながら6勝を挙げている。
2024年12月8日、阪神ジュベナイルフィリーズに海外調教馬として初めて参戦するメイデイレディに、同馬がデビュー以来騎乗しているデットーリが引き続き騎乗することとなった。2019年12月1日以来のJRA騎乗となる(短期免許ではなく競走限定免許での来日参戦。エキストラ騎乗も可能)[16]。
エピソード
- イタリア人騎手ながら、母国で騎乗することは少なく、1年の大半は世界中を飛び回っている。そのため、英語やフランス語が堪能で、日本語も少し話すことができる。
- 2000年6月に小型飛行機墜落事故に遭い重傷を負うが、2ヶ月後に復帰。
騎乗成績
年度別成績
年度 |
1着 |
2着 |
3着 |
騎乗数 |
勝率 |
連対率 |
複勝率
|
1991年[18] |
0 |
0 |
0 |
2 |
.000 |
.000 |
.000
|
1992年[18] |
1 |
2 |
0 |
4 |
.250 |
.750 |
.750
|
1993年[18] |
4 |
1 |
0 |
9 |
.444 |
.556 |
.556
|
1996年[18] |
3 |
2 |
2 |
11 |
.273 |
.455 |
.636
|
1998年[18] |
0 |
0 |
1 |
7 |
.000 |
.000 |
.143
|
1999年[18] |
0 |
1 |
1 |
4 |
.000 |
.250 |
.500
|
2000年[18] |
0 |
2 |
1 |
10 |
.000 |
.200 |
.300
|
2002年[18] |
4 |
0 |
0 |
7 |
.571 |
.571 |
.571
|
2005年[18] |
3 |
2 |
1 |
10 |
.300 |
.500 |
.600
|
2006年[18] |
2 |
2 |
1 |
12 |
.167 |
.333 |
.417
|
2011年[18] |
1 |
1 |
3 |
8 |
.125 |
.250 |
.625
|
2019年[18]
|
6
|
2
|
1
|
21
|
.286
|
.381
|
.429
|
合計[18] |
18 |
13 |
10 |
84 |
.214 |
.369 |
.488
|
略歴
出演
- 記録映画
脚注
外部リンク