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この項目では、ガーシュウィンの楽曲について説明しています。
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Gershwin:Rhapsody in Blue - Aryo WicaksonoのP独奏、Julie Debordes指揮Queer Urban Orchestraによる演奏。Queer Urban Orchestra公式YouTube。 |
『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲、ファーディ・グローフェが編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。
『ラプソディ・イン・ブルー』というタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ラプソディ(狂詩曲)には、「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが窺える。実際この曲は、アメリカ的な芸術音楽の代表格とみなされている。
元は『アメリカン・ラプソディ』という題名だったが、兄のアイラ・ガーシュウィンが現在の題名を提案して変更した。
アメリカ合衆国の著作権法では1978年以前の出版物の著作権は発表から95年と定められており、本作のオリジナル版は2020年よりパブリック・ドメインとなった[1]。
冒頭部
解説
ポール・ホワイトマンの提案を受け、1924年、ニューヨークのエオリアンホールで開かれた「新しい音楽の試み」と題されたコンサートに向けて作曲し、そこで初演された(同年2月12日)。
この曲が作られることになった発端は、1924年1月3日、他の仕事で多忙だったガーシュウィンが兄のアイラとビリヤード場に息抜きに行った際、新聞で「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけたことだった。翌日、抗議のためガーシュウィンはホワイトマンに電話をかけるも、実はこの記事はホワイトマンがガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、「新聞記事になってしまったから作ってくれ」とホワイトマンに押し切られた。
カデンツァの部分は、仕事でボストンに向かう際に乗った列車の走行音から着想を得たとされる。
ガーシュウィンは、この曲を約2週間で一気に書き上げた。ただ、当時のガーシュウィンはまだオーケストレーションに精通しているとはいえなかった上に、作曲の期間が限定されているという事情も加わり、代わってファーディ・グローフェがオーケストレーションを行なった。グローフェは当時、ホワイトマン楽団のピアニストであるとともに専属の編曲者を務めていた。ガーシュウィンが2台のピアノを想定しながら作曲し、それを即座にグローフェがオーケストラ用に編曲していき、結局はガーシュウィン自身が弾くピアノと小編成のジャズバンド向けの版が完成された。その後もいくつかの版が作られたが、1926年にグローフェが再編曲したオーケストラ版と、ガーシュウィンの死後の1942年にフランク・キャンベル=ワトソンがグローフェ編曲版に加筆修正を加えた版がよく知られている。その後は主に1942年版が演奏されている。
ピアノ独奏が入るため、一種のピアノ協奏曲風な雰囲気もある。ヨーロッパのクラシック音楽とアメリカのジャズを融合させたシンフォニックジャズとして高く評価された。
初演が行なわれた「新しい音楽の試み(現代音楽の実験)」には、ヤッシャ・ハイフェッツ、フリッツ・クライスラー、セルゲイ・ラフマニノフ、レオポルド・ストコフスキー、ゴドフスキー、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会ったという[2]。
日本においては、1955年9月11日に日比谷公会堂にて、近衛秀麿の指揮、アメリカ人ピアニストのセイモア・バーンスタインにより初演された。その後、小曽根真などジャズピアニストがニューヨーク・フィルハーモニックなどのオーケストラと、アジアを中心に各地で公演したことでさらに広く知られる。
最初はクラリネットの、低音からのグリッサンドで始まる。当初はグリッサンドでなく、17音の上昇音階で記されていたが、ホワイトマン楽団のクラリネット奏者がふざけてグリッサンドで演奏したところ、ガーシュウィンが気に入り書き改められたと伝えられる。曲風はジャズの要素を多く含んでいる。
各稿とその編成
大ヒットしたため複数の版が作成された[3]。
1924年オリジナル・ジャズ・バンド稿
前述の通り、ガーシュウィンが2台のピアノ用に作曲したものを、グローフェがジャズ・バンド用にオーケストレーションしている。この版はグローフェがホワイトマン楽団での演奏専用に編曲したものであるため、通常のオーケストレーションから逸脱した編曲がなされている。そのため版権は取得したものの、グローフェの手書きの楽譜のみが残されている。
この稿は1976年に、マイケル・ティルソン・トーマスがガーシュウィンの遺したピアノロール(後述)からオーケストラ・パートを削除しソロ・パート部分のみにしたものをソロに用い、コロンビア・ジャズ・バンドを指揮してレコーディングを行い、その後世界的に知られるようになった。ただし、オリジナル版の録音ではなく、ある程度の改変が行われていたようである。
編成は以下の通りである。Orchestra: woodwinds (5 players): flute, oboe, clarinet in E-flat, clarinet in B-flat, alto clarinet in E-flat, bass clarinet in B-flat, heckelphone, sopranino saxophone in E-flat, soprano saxophone in B-flat, alto saxophone in E-flat, tenor saxophone in B-flat, baritone saxophone in E-flat; brass: 2 horns, 2 trumpets, 2 flugelhorns, euphonium, 3 trombones, tuba; percussion: drums, timpani, trap set; keyboards: 2 pianos, celesta, accordion; strings: banjo, violins and string bassesであった。ショット社から2023年に出版された[4]。
1924年2台ピアノ稿
オリジナル・ジャズ・バンド稿の初演の成功の後、ガーシュウィン自身が2台のピアノのために完成させた稿。なお、ガーシュウィンはピアノロールを用いてソロパートとオーケストラパートを2重記録(1台のピアノを連弾)したものを遺している。
1925年シンフォニック・ジャズ・バンド稿
この編成はギロー=ビュッセルの楽器編成応用概論にある程度述べられている[5]。ピアノが2台必要であるため、演奏の機会が少ない[注釈 1]。
1926年オーケストラ稿
この曲の成功を受けて、グローフェがオーケストラ用に再編曲した稿。オーケストラ内ピアノが削除された。
1927年ピアノ・ソロ稿
1924年の2台ピアノ版に続き、ガーシュウィン自身が完成させた稿。
1937年7月にガーシュウィンは死去しているため、この稿が作曲者の関与した最後のものである。
1938年オーケストラ稿
グローフェの再々編曲。ピアノ・ソロ部分までもオーケストレーションし、ピアノがなくても演奏可能としたところに特徴がある。
なお、グローフェは同様にピアノなしで演奏可能にした吹奏楽のための編曲も残している(1937年)。
1942年オーケストラ稿
1926年のグローフェ稿を基本としつつ、フランク・キャンベル=ワトソン(ガーシュウィン作品の出版社の編集者)が改訂した稿。現在、オーケストラでの演奏にあたってはこの稿が使用されることが多い。
- 木管楽器:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、サクソフォーン3(アルト2、テナー1)
- 金管楽器:ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1
- 打楽器・その他:ティンパニ、ベル、銅鑼、小太鼓、シンバル、トライアングル、独奏ピアノ
- 弦楽器:第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンジョー
カヴァー
使用例・世界・日本
脚注
注釈
- ^ 版権は1925と記されているが、ビュッセルがガーシュイン関係の資料を1925年でかき集めることに成功したとは考えられず、もう少し編曲時期は後年の可能性がある。楽器編成応用概論の出版は1933年であり、少なくともこれ以前には編曲されていることにはなる。
出典
関連項目
外部リンク
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登場人物 | |
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