1950年にはF1世界選手権が始まった。改良されたアルファロメオ・158と既に競争力を持つフェラーリとタルボに対応して、マセラティは4CLTのエンジンを再びアップグレードした。マルチパートクランクシャフト、軽量化とバランスを改良したロッド、より強力なスーパーチャージャーと点火タイミングの変更により、エンジン出力は280 bhp (209 kW).[1]に達した。10 kg (22 lb)の軽量化と相まって、マセラティの性能はアルファロメオと互角になった。短期間で多くの改良が行われたが、最終的なアップグレードは10年前に設計されたエンジンにとってあまりにも多く、4CLTのグランプリにおけるパフォーマンスはエンジンの不調によって妨げられた。シーズン唯一の勝利はノンタイトル戦のポーグランプリで、ファンジオの手による物であった。同日にパーネリもグッドウッド・サーキットで行われたリッチモンド・トロフィーで勝利している。その後デヴィッド・ハンプシャーもノッティンガム・トロフィーを獲得した。ファンジオはまた、アングレームで行われたF2のランパートグランプリでA6GCMのエンジンを搭載した4CLTで勝利している。スクーデリア・ミラノは改良型の4CLTを1950年および1951年に使用したが、成功しなかった。
1951年にはプリンス・ビラが49年型の4CLTのエンジンをより強力な4,450 cc (271.6 cu in)のオスカ製V型12気筒自然吸気エンジンに換装した。このエンジンは300 bhp (224 kW).[2]を発揮し、ビラはシーズン前半にグッドウッドで勝利したが、世界選手権ではスペイングランプリに出走しただけで、1周目でリタイアしている。
4CLT/50
1949年後半には、残りのサンレモ(資料によって2台、3台と異なる)がテンポラダ・シリーズ(ブエノスアイレスで1949年から50年まで夏に行われたフォーミュラ・リブレのシリーズ)用に改修された。このモデルは4CLT/50と呼ばれた。1950年のF1用車両もしばしば4CLT/50と呼ばれるが、ファクトリーではテンポラダ用車両のみがその様に呼ばれている。この改修は主に排気量を1,719 cc (104.9 cu in).[1]に拡大することに限定されていた。これらの改良にもかかわらずシリーズはフェラーリが支配し、最終戦の後マシンはイタリアに送られ、F1仕様に再改修された。
プラーテ・4CLT
マセラティ車を長年使用していたエンリコ・プラーテは、マセラティのF1カーとしての欠点を認識し、4CLT/48をF2用マシンのマセラティ・プラーテ・4CLTに改修した。F2は自然吸気車のため、最初のステップは過給機を取り外すことであった。その後、パフォーマンスの損失を補うために圧縮比は2倍以上になり、排気量はクラス上限の2.0 L (122.05 cu in)まで引き上げられた。改良型エンジンの出力は低かったため車体を軽量化し、ホイールベースを短縮してハンドリングをシャープにした。