ポリネシアン (Polynesian) は、1940年代アメリカ合衆国の競走馬、および種牡馬。1945年のプリークネスステークス優勝馬であり、ネイティヴダンサーの父としても知られている。
経歴
1944年4月25日にピムリコ競馬場でデビューしたが、デビュー間もなく窒素尿症(スクミ)を患い、激痛により調教どころか体を動かすことすらできなくなった。調教師も手をこまねく状態がしばらく続いたあるとき、ポリネシアンがスズメバチの群れに襲われ、体を刺されてしまった。しかし、この事故の直後ポリネシアンの体調はなぜか好転し、8月には競馬場に復帰して初勝利を挙げるに至った。2歳時はこのほかに、サガモアステークスや一般戦などで4勝している。
3歳シーズンは5月から始動、ケンタッキーダービーを回避して、アメリカ三冠競走のなかで最短距離のプリークネスステークスを大一番に選んだ。ウィザーズステークスに勝って臨んだ本番で、ポリネシアンはケンタッキーダービー馬フープジュニアに2馬身半差をつけて優勝、クラシックホースの仲間入りを果たした。なお、フープジュニアはこの競走で屈腱炎を発症し、引退している。
この年以降、ポリネシアンはアームド・スタイミー・ギャロレット・アソールトなどといった強豪古馬と何度も対決を繰り返していった。3歳時はプリークネスステークス以降これといった勝鞍がなかったが、翌年にはトボガンハンデキャップなど8勝、5歳時には3回のレコードタイム更新を含む9勝を挙げ、その年のアメリカ最優秀短距離馬に選出された。
引退後
1948年から種牡馬となった。種牡馬入り3年目のシーズンとなる1950年、この年生まれた産駒のなかの一頭に、のちの名競走馬にして大種牡馬ネイティヴダンサーがいた。同馬から始まるネイティヴダンサー系は全世界において主流血統の一つとなり、ポリネシアンの血統は現在も世界中で息づいている。
ネイティヴダンサーの存在が顕著であるが、このほかにも以下のような活躍馬を出している。
ほか、1958年生のアウトリガーが種牡馬として日本に輸入されている。ブルードメアサイアーとしての代表馬には、日本にも輸入されたケンタッキーダービー馬シャトーゲイ(母Banquet Bell)がいる。
1959年、ポリネシアンは牧場で疝痛を発症し、それが元で17歳の生涯を閉じた。遺骸はレキシントンのギャラハーファームに埋葬されている。
評価
主な勝鞍
- 1944年(2歳) 10戦5勝
- 1945年(3歳) 14戦5勝
- プリークネスステークス、ウィザーズステークス
- 1946年(4歳) 20戦8勝
- ローズベンステークス、トボガンハンデキャップ
- 1947年(5歳) 14戦9勝
- ロングブランチステークス、カムデンハンデキャップ、オーシャンポートステークス
年度代表馬
血統表
外部リンク