ボオル(モンゴル語: Bo’ol、1197年 - 1228年)は、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたジャライル部出身の万人隊長。モンゴル帝国の創設者チンギス・カンに仕えて左翼万人隊長となったムカリ国王の息子であり、父の死後はその地位を継承して主に旧金朝領華北の平定に活躍した。
『元史』などの漢文史料では孛魯(bólŭ)、『集史』などのペルシア語史料ではبوغول(būghūl)と記され[1]、日本語書籍ではボゴル、ボールとも表記される。
ボオルの前半生についてはほとんど記録がないが、1221年にムカリの下を訪れた南宋の使者の記録『蒙韃備録』には「ムカリには一人だけ子供がおり、ボオル(袍阿)という名であった。うるわしい容儀を持ち、諸国語にたくみであった」と評されている[2][3]。1223年(癸未)3月に中国方面司令官を務めていた父のムカリが亡くなると、この頃27歳であったボオルは当時中央アジア(西域)遠征中であったチンギス・カンの下を訪れた。そこでボオルは父の地位(「国王」位)と職責を継ぐことを認められ、まず西夏国を攻撃するよう命じられた。1224年(甲申)9月、西夏国の首都の興慶一帯を攻撃したボオルは数万の首級及び数十万の捕虜・家畜を獲る大勝利を挙げた[4]。
1225年(乙酉)春にボオルは一度チンギス・カンの下に戻ったが、この頃中国方面では真定府にて武仙がモンゴルに降った有力者史天倪を殺害しモンゴルに叛旗を翻すという大事件が起こっていた。史家では史天倪の末弟の史天沢を質子(トルカク)としてモンゴル軍に差し出しており、この頃史天沢はボオルの下で「帳前軍総領」を務めていた[5]。史天倪が殺されたとの報が届くと史天沢は武仙討伐のため急ぎ真定に戻り、ボオルはこれに配下のセウニデイ率いる3千の軍勢を後ろ盾としてつけ、史天沢・セウニデイ軍は首尾良く武仙を討伐して真定を再攻略することができた[6][7]。
1226年、山東地方では盗賊あがりの群雄の一人李全が益都を陥落させ、元帥の張琳を捕らえるという事件が起こった。これを受けてムカリの弟でボオルにとって叔父にあたるタイスンがまず李全の拠る益都を包囲し、同年12月中にはボオルも山東地方に入った。この時、ボオルは李喜孫を使者として派遣し李全の投降を促したが、李全の部将の田世栄によって李喜孫は殺されてしまった。1227年(丁亥)3月には逃亡を図った李全の軍団を撃ち破って7千余りの首級を挙げ、4月には食料不足によって李全は遂にボオルに降った。この時、ボオル配下の諸将は見せしめとして李全らを処刑することを主張したが、ボオルは未だモンゴルに服属していない者達の人心を得るためむしろ李全を厚遇することを主張し、この意見が採用された結果モンゴルに投降する者が相継ぎ遂に山東一帯は平定された[8]。しかし、この時李全の勢力を削減せずそのまま保ったことが後の李璮(李全の後継者)の乱に繋がることになった[9]。
その後、滕州攻めが行われた時には諸将が炎暑のため作戦の延期を進言したが、ボオルは「チンギス・カン自ら率いるモンゴル軍が数年にわたる中央アジア遠征中に炎暑で戦を避けた事例などないというのに、我らがどうしてそのような振る舞いをできようか」と言って作戦を決行し、首級3千を挙げる大勝利を得た。その後、1227年にチンギス・カンが死去したとの報を聞いたボオルは急ぎ帰還したがそこで病となり、チンギス・カンの後を追うように1228年5月に32歳の若さで病死した。ボオルにはタス、スグンチャク、バアトル、バイナル、エムゲン、エブゲン、アルキシという7人の息子がおり、バアトルが帝位継承戦争においてクビライの勝利に大きく貢献して以降は大元ウルス最大の権門としてムカリーボオル家は大いに栄えた[10][11]。