ブラ (イタリア語 : Bra )は、イタリア共和国 ピエモンテ州 クーネオ県 にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万人の基礎自治体 (コムーネ )。
スローフード 運動発祥の地であり、イタリア・スローフード協会およびスローフード・インターナショナルの本部、食科学大学 が置かれている。
地理
位置・広がり
クーネオ県の北東部に位置するコムーネである。ブラの市街は、アルバ から西へ約14km、県都クーネオ から北東へ約42km、州都トリノ から南南東へ約44kmの距離にある[ 4] 。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。
地勢
市域はタナロ川 (英語版 ) 左岸 (北岸)にあたり、河岸段丘 が発展している。全体的に平坦な地形ではあるが、市街と東南部(タナロ河畔)の間に段丘崖があり、市街の標高が290mであるのに対し、河畔にあるポレンツォの標高は198mである。
ブラ市街北方には丘陵が広がっている。
主要な集落
ブラ の市街(人口約2万4000人)は、コムーネのほぼ中央部に位置する。
最大の分離集落 は、コムーネ北部のサンフレとの境界付近にあるバンディト (人口約1600人、市街の東南東約4.3km)。
コムーネ東部のサンタ・ヴィットーリア・ダルバとの境界付近にポレンツォ (約750人、東南東約3.7km)やボルゴ・ヌオヴォ (約150人)の集落がある。
コムーネ西部にはリーヴァ (約120人、西3.4km)、カーゼ・デル・ボスコ (約100人、西北西約6.5km)などの集落がある。
ブラの市役所(ムニチピオ)
ポッレンツォの塔と教会
歴史
先史・古代
ブラの地域に人々が暮らすようになった時期は古く、新石器時代 には人々が活動していたことが確認できる。
紀元前2世紀 の終わり、ローマ人はタナロ川の河畔にポルレンティア(Pollentia , 現在のポレンツォ)の町を建設した。ポレンティアは、リグリア 地方とピエモンテの平原とを結ぶ、商業・軍事の中心地として栄えた。
402年 4月6日 、アラリック1世 が率いる西ゴート族 は、ポルレンティアでスティリコ が率いる西ローマ帝国 軍に敗れた(ポルレンティアの戦い (英語版 ) )。郷土史家の Edoardo Mosca によれば、ブラ周辺のいくつかの地名(Gottaなど)はゴート人の呼称に由来しており、アラリックの敗走後、本隊から切り離されてこの地に取り残されたゴート族の兵士たちがいたことを示すという。この戦いの頃よりポルレンティアの衰退が始まり、住民たちはより安全な台地上(現在のブラの市街)へと移り住んだ。
近代・現代
市役所
1760年 、サルデーニャ王国 のカルロ・エマヌエーレ3世 によって、ブラは都市(città )の格が認められた。18世紀、ブラの街は拡大し、建築面でも面目を一新した。ブラの都市景観に大きな役割を果たした建築家が、ベルナルド・ヴィットーネ (it:Bernardo Antonio Vittone ) である。ブラには、ヴィットーネが手掛けた後期バロック建築 の2つの作品、 市役所(Palazzo Municipale)とサンタ・キアラ教会がある。
19世紀にブラの街はすぐれた人物を輩出しており、現在は市内にかれらの銅像が立っている。「神の摂理の小さな家」を設立したジュゼッペ・ベネデット・コットレンゴ (英語版 ) 、科学者・古典学者の G.B. Gandino、考古学者の Edoardo Brizio、自然科学者の Ettore Craveri と Federico Craveri などである。
1986年 、ブラ出身のカルロ・ペトリーニ (英語版 ) によって、スローフード 運動がはじめられた。
文化・観光
「スローシティ 」加盟都市である。
交通
道路
ブラの市街を東西にSS231、南北にSS661が貫いている。このほか州道のSP7、SP48がコムーネを走っている。
高速道路A6はコムーネの西端を通過するのみであるが、南隣のケラスコにインターチェンジがあり、SS231によって結ばれている。
高速道路
国道
鉄道
東西にアレッサンドリア=カヴァッレルマッジョーレ線があり、ブラ駅で北にカルマニョーラに向かう路線が分かれている。カルマニョーラ=ブラ線はかつて南のチェーヴァまで伸びていたが、1994年のタナロ川の洪水 (it:Alluvione del Tanaro del 1994 ) 以後、この区間の運行を停止している。
姉妹都市
人物
ブラにあるジュゼッペ・ベネデット・コットレンゴの像
著名な出身者
脚注
外部リンク
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