フランツ・フォン・スッペ (ドイツ語 : Franz von Suppè [zʊˈpeː, ˈzʊpe] [1] , 1819年 4月18日 - 1895年 5月21日 )は、オーストリア の作曲家。オペレッタ とその序曲 で有名。「ウィンナ・オペレッタ (ドイツ語版 ) の父 」と呼ばれることもある。指揮者や歌手としても活動した。ズッペ の表記も多い。
姓は「Suppè 」であるが、長らく誤って「Suppé 」と書かれてきた[2] 。
名前
洗礼 記録にはイタリア語 でフランチェスコ・エゼキエーレ・エルメネジルド、ピエトロ・デ・スッペの子 (Francesco-Ezechiele-Ermenegildo figlio de Pietro de Suppe )とあるが、「Suppe」は正確には「Suppè」である[3] 。ウィーン在住中に氏名をドイツ語風に簡略化して「フランツ・フォン・スッペ」とした。姓は誤って[2] 「スッペ・デメッリ (Suppe Demelli)」と呼ばれることもある(デメッリは父方の祖母の姓[3] )。
「Suppè」は標準ドイツ語では「ズペー」「ズペ」と読まれるが、オーストリア・ドイツ語 では「スペー」「スペ」と読む。なお、アクセントのない「Suppe」はドイツ語で「スープ」の意味になる。
生涯
ウィーン中央墓地 にあるスッペの墓
スッペ、1846年
従来のスッペの伝記は作り話に満ちており、とくに生い立ちには謎が多い。たとえば子供のときにフルートの演奏に熱中しすぎて父親が楽器を隠したとか、あるいは遠戚にガエターノ・ドニゼッティ がいて、イタリアを訪れてロッシーニ やヴェルディ に会ったとされるが[4] [5] 、これらが真実かどうかを知るのは難しい[2] 。
スッペはダルマチア 地方のスパラト(ヴェネツィア共和国 領だったが1797年の共和国の解体後はハプスブルク帝国 に所属、現クロアチア 領スプリト )に生まれた。父方の先祖はベルギー からの移民と言われるが[4] 、4代前までさかのぼってもダルマチア出身であり、ベルギー系という説には根拠がないともされる[3] 。一方母親はウィーンの生まれだった[3] 。現存する最初の作品は、1835年 に地元のフランシスコ会 の教会で初演されたカトリック 典礼のミサ曲 で、後に改訂されて『ミサ・ダルマティカ』と名づけられた[2] 。パドヴァ で法律を学んだともいうが[4] 根拠がないとされる[2] 。
1835年に父親が没すると、母とともにウィーン に出て、1836年から1840年までイグナーツ・フォン・ザイフリート に学んだ[2] 。晩年のフランツ・シューベルト やアントン・ブルックナー の対位法 の師として高名なウィーン音楽院 のジーモン・ゼヒター に入門したとも言われるが明らかでない[2] 。
1840年から1845年までヨーゼフシュタット劇場 (ドイツ語版 ) の第3カペルマイスター となった(最初は無報酬だった)[2] 。同劇場では自作を多数上演した。劇場監督のフランツ・ポコルニー (Franz Pokorny ) は、スッペをバーデン 、エーデンブルク(ショプロン )、プレスブルク(ブラチスラヴァ )などで活動させ、またアン・デア・ウィーン劇場 の首席作曲家兼指揮者に任命した[2] 。ここで彼はアルベルト・ロルツィング やアドルフ・ミュラー (Adolf Müller Sr. ) とともに活動した[2] 。
1862年にポコルニーが倒産するとカイ劇場 (de:Theater am Franz-Josefs-Kai ) 、翌年カイ劇場が焼失するとレオポルトシュタット のカール劇場 (Carltheater ) に移った。『美しきガラテア』、『ファティニッツァ』、『ボッカチオ』などのスッペのもっとも有名なオペレッタはカール劇場のために書かれた[2] 。
1882年にカール劇場から引退したが、作曲活動は続けた。晩年の作品は多くが宗教曲である[4] 。
しめて100曲以上の作品を作曲した。
晩年はウィーン で過ごして、76歳で逝去した。墓はウィーン中央墓地 にある。
作品
ジャック・オッフェンバック のオペレッタに触れ、ウィーンで初めてオペレッタを手掛けた。このことからスッペは「ウィンナ・オペレッタ (ドイツ語版 ) の父 」と呼ばれることもある。スッペのオペレッタのうち、『ボッカチオ 』(Boccaccio )と『ドンナ・フアニータ 』(Donna Juanita )の2曲がニューヨークのメトロポリタン歌劇場 でも上演されたが、レパートリーに定着することはできなかった。しかしヨーロッパでは一定の頻度で上演が続いており、ウィーン・フォルクスオーパー やモスクワ・アカデミー歌劇場が来日公演で取り上げたこともある。ちなみに、生涯イタリア・オペラ(と『カルメン 』)に徹し、ドイツ物はほとんど歌わなかった大歌手マリア・カラス のデビュー演目は『ボッカチオ』であった。
日本では、大正時代に浅草オペラ の台頭によってスッペのオペレッタが紹介され、とりわけ『ボッカチオ』のアリエッタ『恋はやさし野辺の花よ』が田谷力三 の愛唱歌として普及された。同じく『ボッカチオ』のセレナーデ「Holde Schöne, hör' diese Töne 」は『ベアトリ姐ちゃん』とタイトルを変え、榎本健一 の歌でヒットした。
スッペは30曲のオペレッタのほか、バレエ音楽など多数の舞台音楽を作曲した。それらの大部分が忘却に追いやられている中で、『軽騎兵 』や『詩人と農夫 』の序曲が、映画 やアニメーション 、コマーシャル などの音楽に転用され、コンサートで演奏されている。これらはヨハン・シュトラウス2世 などに比べ起伏を大きくとって豪快にオーケストラを鳴らす傾向があり、そのせいかカラヤン 、ショルティ 、スウィトナー 、非独墺系ではパレー 、デュトワ 、ネーメ・ヤルヴィ といった、重厚長大系のレパートリーを得意とする大物指揮者が好んでスッペ序曲集をアルバム化している。特にショルティはウィンナ・ワルツを一切取り上げてない(録音はゼロ、演奏会でも正規プログラムには載せていない)一方で、スッペ序曲集はオーケストラを替えて2度録音している。
郷里のダルマチアとの縁を守り続け、時どきスプリト などを訪れた。作品のいくつかはダルマチアにゆかりがあり、とりわけオペラ『水夫の帰国 』は、フヴァル島 で起こった事件に基づいている。指揮活動を引退してからもスッペはオペラの作曲を続けたが、作曲の焦点を宗教音楽に切り替えた。レクイエム や3つのミサ曲、交響曲 、演奏会用序曲 、歌曲を作曲した。
オペレッタ
オペレッタ『スペードの女王 』総譜
スッペは約30曲のオペレッタを作曲した。
寄宿学校 (ドイツ語版 ) (Das Pensionat )
1860年初演、最初のウィンナ・オペレッタといわれる
スペードの女王 (Pique Dame )
10人の乙女と男不在 (ドイツ語版 ) (Zehn Mädchen und kein Mann )1862年初演
陽気な若者(Flotte Bursche )1863年初演
フランツ・シューベルト (ドイツ語版 ) (Franz Schubert )1864年初演
美しきガラテア (Die schöne Galathée )
オッフェンバックのオペレッタ『美しきエレーヌ 』に対抗して作曲。1865年初演
軽騎兵 (Leichte Kavallerie )1866年3月21日初演
怪盗団 (Banditenstreiche )1867年初演
タンタルスの苦悩(Tantalusqualen )1868年初演
親方夫人(Die Frau Meisterin )1868年初演
ファティニッツァ (Fatinitza )1876年初演
ボッカチオ (Boccaccio )1879年初演
ドンナ・フアニータ (Donna Juanita )1880年初演
アフリカ旅行(Die Afrikareise )- 1883年初演
モデル(Das Modell )- 作者の死によって未完成で残され、没後に補作されて1895年に初演された[6] 。
その他
『ウィーンの朝・昼・晩 』(Ein Morgen, ein Mittag und ein Abend in Wien )
オペレッタとして扱われることが多いが、「歌付きの笑劇」として1844年2月に初演された
劇付随音楽『詩人と農夫 』(Dichter und Bauer )1846年
オペラ『水夫の帰国』(Des Matrosen Heimkehr )1885年。イタリア語のピアノ版スコアのみが残っていたが、2003年に蘇演された[7] 。
『おお、我がオーストリア』(O du mein Österreich )- 1852年に軍楽隊の作曲家であるフェルディナント・プライス (nl:Ferdinand Preis ) によって作曲された行進曲 。1847年にアン・デア・ウィーン劇場で初演された劇『s'Alraunl』につけられたスッペの歌曲をトリオ部分に引用している。原曲は3拍子だったが2拍子に直されている[8] 。現在ではオーストリアの非公式の国歌のひとつと考えられている[9] 。
宗教音楽
スッペを題材とする作品
1940年のヴィリ・フォルスト 監督の映画『維納物語』 (Operetta ) では、テノール歌手のレオ・スレザーク (英語版 ) がスッペを演じている[10] 。
出典
^ Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7
^ a b c d e f g h i j k Alexander Rausch; Christian Fastl (2023-01-20), Suppè (fälschlich auch Suppé, Suppe Demelli), Familie , Oesterreichisches Musiklexikon, https://www.musiklexikon.ac.at/ml/musik_S/Suppe_Franz_von.xml
^ a b c d On Franz von Suppè’s ancestors and his early years at Zadar , Stars in Gars, (2019-11-17), オリジナル の2022-12-06時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20221206181943/https://starsingars.wordpress.com/2019/11/17/vortrag-beim-franz-von-suppe-round-table-in-der-oesterreichbibliothek-der-universitaet-zadar-15-november-2019/
^ a b c d Peter Branscombe; Dorothea Link (2001-01-20), “Suppé [Suppè], Franz (von) [Francesco Ezechiele Ermenegildo Cavaliere Suppé Demelli]”, Grove Music Online , doi :10.1093/gmo/9781561592630.article.27130
^ George Hamilton (2020-09-18), Tall tales from the 'Father of Viennese Operetta' , Independent.ie, https://www.independent.ie/entertainment/music/tall-tales-from-the-father-of-viennese-operetta/39134262.html
^ Das Modell , Franz von Suppé: Ein Morgen ein Mittag, ein Abend in Wien, https://www.f-v-su.de/bearbeitung-modell
^ Hans-Dieter Roser (2020), Anchors Away: Franz von Suppé’s “Il Ritorno del Marinaio” On CPO , Operetta Research Center, http://operetta-research-center.org/franz-von-suppes-il-ritorno-del-marinaio-cpo/
^ Zum 200. Geburtstag von Franz von Suppé (O du mein Österreich) , Dr. Elisabeth und Dr. Friedrich Anzenberger, (2019-07-30), https://www.anzenberger.info/o-du-mein-oesterreich
^ s'Alraunl , Franz von Suppé: Ein Morgen ein Mittag, ein Abend in Wien, https://www.f-v-su.de/alraunl
^ 『維納物語 』MOVIE WALKER PRESS 。https://moviewalker.jp/mv16224/ 。
参考文献
外部リンク