ポール・パレー(Paul Paray, 1886年5月24日 ル・トレポール - 1979年10月10日 モンテカルロ)は、フランスの指揮者、作曲家。優れたオーケストラ・ビルダーとして有名で、その指導と監督のもとにデトロイト交響楽団を世界有数のオーケストラに育て上げた。指揮者として著名であるが、本来は作曲家でもあり、没後に時を置いて一連の作品が再評価されるようになってきた。
略歴
ノルマンディー(セーヌ=マリティーム県)出身。父親は彫刻家であると同時に教会オルガニストであり、アマチュアの音楽団体を率いていた。パレーは少年時代から、父親のオーケストラで打楽器奏者を担当しており、その後ルーアンに行き2人の大修道院長、ブルジョワ師とブルドン師に音楽を、オルガン演奏をアリン(Haelling)に師事し、パリ音楽院への入学資格を得た。1911年にカンタータ『ヤニッツァ』 (Yanitza) を提出して、ローマ大賞を獲得。第一次世界大戦が始まるとフランス陸軍に召集されるが、1914年に捕虜としてダルムシュタット収容所に送致され、その地で弦楽四重奏曲を作曲した。
終戦後は、カジノ・デ・コトレーの楽団の楽長に就任。このアンサンブルはコンセール・ラムルーの出身者もまじっており、これが転機となってコンセール・ラムルーを指揮するようになり、その後はコンセール・コロンヌやモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者も務めた。
1922年にバレエ音楽『不安なアルテミス』 (Artémis troublée) を作曲。1931年に『ジャンヌ・ダルク帰天500周年記念のミサ曲』を作曲、これはジャンヌの殉教を称えるためにルーアン大聖堂によって委嘱された作品である。1935年に『交響曲第1番ハ長調』を、1940年に『交響曲第2番イ長調』を作曲し、それぞれコンセール・コロンヌによって初演された。
1939年にニューヨーク・フィルハーモニー協会交響楽団を指揮して米国デビューを果たす。1952年にデトロイト交響楽団の音楽監督に任命され、1963年に退任するまで、モノラル時代からステレオ初期の時代のマーキュリー・レーベルに数々の演奏を残した。
録音
有名な録音の一つに、サン=サーンスの『オルガンつき交響曲』が挙げられる。1957年10月に行われた録音を取り巻く状況は、とりわけ幸運に恵まれていた。パレーはこの作品特有の要求を、自分なりに理解しており、デトロイト交響楽団はすでにフランス最上のオーケストラに引けを取らない水準になっていた。少年時代の恩師の一人で親しいマルセル・デュプレがこのセッションにオルガニストとして招かれた。デュプレ自身、青年時代にサン=サーンス自身の演奏を最大限の目標としていた。それに、デトロイトのフォード・オーディトリアムに据えられたオルガンは、この作品に似つかわしい音色であった。この録音は、音響的に今日の水準に見合っているとはいえないもの、それでもこの交響曲の、世界的に最も優れた演奏の一つに数えられている。
他のフランス物ではベルリオーズの『幻想交響曲』やフランクの交響曲、ドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲集などがあり、特にベルリオーズ・フランクは決定盤の誉れが高い。
またドイツ物については、同じくドイツ物を得意としたフランス系指揮者モントゥーやクリュイタンスに勝るとも劣らない非常に高い評価を受け、知的ですっきりとしつつも味わいのある演奏を聴かせた。録音ではベートーヴェンの交響曲選集やシューマンの交響曲全集、ワーグナーの管弦楽曲集を残している。ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』(1954年録音、デトロイト交響楽団)では、多くの場合には演奏時間40分ほどを要するこの作品を35分30秒という速さで演奏しており、録音史上最速の『田園』といわれている。
1942年のフランス映画『アルルの女』で、モンテカルロ劇場管弦楽団を指揮してサウンドトラックを担当。冒頭では前奏曲の演奏も見られる。
主要な録音
特記なきものはデトロイト交響楽団
脚注
外部リンク