2014年のルネ
フランス=アルベール・ルネ (France-Albert René , 1935年 11月16日 - 2019年 2月27日 )は、セーシェル の政治家 、社会主義者 。1977年 から約27年間にわたり大統領 職にあり、同国を率いた。アルベール・ルネ 、F.A.ルネ という表記もある。
経歴
フランス人 の両親の元に英王領植民地だったセーシェルで生まれ、早くからイギリス で学び、キングス・カレッジ・ロンドン を卒業後はセーシェルに帰国して弁護士 となった(1957-1961年)。ルネはもともとカトリック教会 の司祭 を目指していたが、イギリス留学中、労働党 に強い影響を受け、社会主義思想を受容。カトリック教会 との協力に基づく国家による強い統制経済 を志すようになっていた。ルネは1964年 に社会主義政党セーシェル人民統一党 (SPUP)を設立。SPUPは1978年 にセーシェル人民進歩戦線 (SPPF)、2009年 には人民党 と改称し、現在まで有力政党の1つとなっている。
第一共和国時代
1976年 にセーシェルが独立し、第一共和国 [1] が成立すると、ルネはジェイムス・マンチャム 初代大統領のもとで首相に就任。しかし翌1977年 、ルネの支持者がクーデター (英語版 ) を起こし、マンチャムは失脚。ルネが第2代大統領に就任した。ルネは実権を握ると、セーシェルをソ連型社会主義 に基づく一党独裁 のもとに置くことを発表。ディエゴガルシア島 への米軍基地建設に反対するなど、反西側色を強めた[2] 。
第二共和国時代
1979年 に新憲法が公布され、セーシェルは第二共和国 [1] と呼ばれる一党独裁時代に入る。同年、ケニア 駐在のアメリカ 外交官に支援されたマンチャム派によるクーデターが計画されたが、ルネ政権により未然に防がれた。更にこのクーデター計画にはフランス も関わっていたことが証明されている[3] 。
1981年 11月25日 には、アパルトヘイト 時代の南アフリカ に支援された勢力によるクーデター計画が発生したが、同じ社会主義国だったタンザニア の援軍により、鎮圧に成功した[4] 。
幾度となくクーデターの危機にさらされてきたルネだが、大統領選挙で順当に再選を重ねていく。東側諸国との関係を重視し、それらの国々からの支援は権力基盤を強固にした。しかし1980年代 末からの東欧革命 と1991年 のソビエト連邦の崩壊 は、セーシェルから重要な支援元を失わせ、ルネ政権の権力にも陰りが見え始める。
1991年 、ルネ率いるSPPFは一党独裁 の放棄と複数政党制 の復活を発表[5] 。1993年 には新憲法(現行憲法)が制定され、第三共和国 [1] が成立した。
第三共和国時代
新憲法では大統領の任期は3期までとされたが、ルネは既に第二共和国時代に3選(1979年 、1984年 、1989年 )されていた。しかし新憲法制定・第三共和国への移行によりそれまでの任期はリセットされ、1993年 の大統領選挙で当選したルネの任期は1期目と数えられた。その後、1998年 と2001年 の大統領選挙でも当選を重ねたルネだが、高齢であり、2004年 に健康上の理由で辞任。後継にはSPPFのジェイムス・ミッシェル 副大統領が昇格した。こうして、1977年 以来の長期にわたるルネ政権は幕を閉じた。
2019年2月27日に83歳で死去[6] 。
ルネの功罪
政治的には一党独裁を敷き、自由を制限したルネだが、その長期政権は一方では政治的な混乱を防ぐ役割も果たした。また、インド洋 の島国 という立地を生かし、リゾート 開発を中心に観光業 を振興した。その結果、セーシェル経済は高度に成長し、アフリカ 53ヶ国の中ではトップクラスの1人当たり国内総生産 (GDP)となった。人口10万人に満たない小国セーシェルを経済成長 の軌道に乗せた功績は大きい。
また、教育 ・厚生 ・環境 政策にも大いに力を注ぎ、乳児死亡率 や識字率 などの数値も改善され、国連開発計画 (UNDP)が毎年発表する人間開発指数 (HDI)でも、セーシェルは先進国に次ぐ位置にある。
経済面で成果を収める一方、体制批判者に対しては、ルネ政権およびSPPFによる組織的な拷問 が行われていたといい、人権が侵害されていたという批判がある。その結果、第三共和政の成立まで、体制批判者はイギリス や南アフリカ に亡命を余儀なくされていた。
参考文献
関連項目